世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

アートって「ひまつぶし」じゃないから 「表現」にはコア(核)がある コドモのチカラ

あんまり具体的に書けないのですが「表現」とか「アート」をやっている人たちの中に「表現」や「モノづくり」を「ひまつぶし」でやっているひとがいます。そういう仕事が評価を受けたりするからイヤなのですが「こねくりまわした仕事」は早く終えてください。

 

私はなぜかロシアが好きでシャガールとかドストエフスキーとかストラビンスキーとかムソルグスキーとか子供の頃から好きなのです。

 

チャイコフスキーもそうなのですが「子供にとっておもしろい」のです。

 

ストラビンスキーもムソルグスキーチャイコフスキーも「子供にとってすごく面白い音楽」なのです。(少なくとも私にはそうでした)

 

私は画廊に普通に行きます。そして「この絵って」と普通に画廊のひとと話をします。私は「自分の中いる子供」に自信をもっているからです。

 

私は絵を描くのですが基本写真を見ながら描きます。そういう描き方は邪道なんだというひともいますが私はそうは思いません。

 

「表現」にはコア(核)があるのです。そのコア(核)が弱いと「ひまつぶし」や「こねくりまわした仕事」にどうしてもなります。

 

そのコア(核)を磨く方法を書かないと世間に喧嘩を売ることになるのでその方法を書いておきます。

 

「遊ぶ」のです。その「遊び」というは刹那的なものでも享楽的なものでもありません。「喜び」を追い求めるのです。その「喜びをでかく」するのです。

 

酒を飲む女の子と遊ぶということも「喜び」です。でももっと「でかい喜び」を追い求めるのです。

 

それをあえてコトバにすると「子供になる」のです。

 

ちょっと難しいコトバを使うと「無意識領域」で「遊ぶ」のです。

 

私が「こねくりまわした仕事」だと批判したのは「意識領域」での工夫なのです。

 

物語でも小川未明の童話はつじつまがどうあっているのかが不明な場合があります。

 

小川未明童話集 (新潮文庫)

小川未明童話集 (新潮文庫)

 
野ばら

野ばら

 

 無料本もあるので読んでみてください。

 

童話なのですがどこか薄気味悪い小川未明の童話は小川未明は無意識領域にまで降りていくのです。結果「つじつまがどこかあわない」ということにもなるのです。

 

「こねくりまわした仕事は逆」です。

 

パフュームの三人がいくらがんばっても評価を受けるのは中田ヤスタカではあるよねと思って彼女たちにたいしては独特の気持ちでいますがパフュームのアルバムで「GAME」というタイトルのものがあります。

 

アートってGAMEじゃないのです。クイズでもありません。

 

中田ヤスタカがあえて「GAME」というアルバムタイトルをつけたのは彼の仕事がGAMEではないからなだと想像しています。

 

私がいうコア(核)がない人達は「うまい」です。コア(核)がないからテクニカルにしかならないのです。

 

なんで表現者が子供にならないのか私には不思議でなりません。

 

「子供のなりなよ!あんたら」