世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

デボラ・チェンバース 「友情化する社会」 について

チェンバースの「友情化する社会」を流し読みしました。「男の友情」にたいする考察がとても興味深かったのです。

 

私の周囲でも「働く男」には普通「友達がいません」。「友達」の定義も問題ではありません。ただ「普通に働いている男」には「友達がいない」のが普通です。

 

昔から定年を迎えて今までもらっていた名刺をどうして良いのかわからないであるとかそれまでまでお歳暮とかお中元をもらっていたのに何もなくなってしまったという話があります。

 

しかも男同士での「優劣」があるという指摘もあります。「劣った男だとは思われない」という意識が男にあると指摘しています。

 

そういう流れでLGBTの問題にも挑んでいます。経験的に分かるのですがゲイでなくてもなんとなくナヨっとした男は男の仲間でどこかさげすまれます。

 

チェンバース先生の本から勝手な引用をして申し訳ないのですが。

 

「男の友情は排他的だ」という指摘もあります。

 

誰かを仲間外れにするカタチで友情を成立させると言うのです。

 

以前にいとうせいこうさんがラジオでおっしゃっていたのですが韓国の方から「徴兵制は辞めた方がいい」と言われたことがあるらしいのです。徴兵から帰って来た男性がどこか女性をさげすむようになると言うのです。

 

これは半ば笑い話ですが、私は小学校高学年の時に母親とつまらないことで喧嘩しました。私服の話です。私服のシャツの裾を私は出したかったのですが母親は入れろと言ったのです。結果私はシャツの裾を出したのですが。

 

これも半ば笑い話ですが私は母親からただ名前を呼ばれていましたが、母親が子供のかわいいあだ名をつけている場合があります。「タックン」とかです。ある種の男性はある年齢の時に「オレはタックンじゃないよね」と思う場合があります。でも母親の中では「タックン」でしかないのです。女友達が息子さんの第二次反抗期で悩みも疲れもしていました。正直息子さんがキライになるくらいの反抗期だったのです。友人として、その話を聞いてつらかったのですが、その経験を経て彼女は「あの子はかわいいあの子じゃないのね」と彼女は納得出来たようです。彼女の苦しみもそうとうだったことは事実です。でもその経験を経て彼女と彼女の息子さんとの新しい関係が成立したと今は考えています。

 

これはある種の映画のパターンのセリフです。軍人さんもので若い兵隊さんに「お前はお袋が怖いのか」と鬼軍曹が怒鳴るというセリフがあったのです。

 

「女は生まれた時から女だが男は男になる」という言い方があります。確かにそういう要素は男にあるのでしょう。

 

実際援助色の友人は「母子分離」が課題です。

 

「男が男になる存在」だと認めたとしても「男になるプロセスでなんらかの存在を排除してしまう可能性がある」と私は考えています。

 

LGBTの問題は1980年代にはもう注目されていました。

 

わざと刺激的な表現をするのですが「男という病理」が存在するのかもしれません。

 

「男」なる存在は「病理」として存在している可能性があるのです。