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世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

自分が責任を取るのもイヤなら誰かが責任を取るのもイヤらしい 「これって日本的ですか」

ある先生の本を読んで、私はココだと思ったポイントがありました。その先生への敬意をこめてその先生の名前は出しません。日本の合意ではあることが重要視されるというところが私にとってのポイントでした。そういう常套句があるのです。その常套句とは「満場一致で決まりました」です。その先生は「満場一致で決まった」ことにすることに「意味がある」と考えていると私は想像します。あることが「満場一致で決まった」のであるのなら、その決定にみんなが責任を持つことになります。裏を返せば「誰も責任を取らなくてもいい」ことになるのです。

 

私自身も根回しをしながら「満場一致を(意識せず)めざしていること」が多々あります。「事を荒立てたくない」からです。あるいは今の国会のある種の混乱にも、「満場一致で決めたい」と意識があると想像するのです。民主主義の原則は「多数決」です。少数派が正しい場合も多々あることは大前提です。ただ「多くのひとがこちらを選んだ」ということを根拠にして、物事を決めるのが「多数決」です。「多数決」の場合は「手続き」がとても重要になります。要は「議決を取る前にどの程度の意思を疎通ができ、どの程度の議論ができ、どの程度の共通の了解ができ、どの程度の意識の深まりができたか」が問題になるからです。「多数決」はそもそもおかしいといえばおかしいものです。繰り返しになるのですが、「少数派が正しい場合も多々あるから」です。でも「何かを決める」です。ですから「多数決はとても効果的」です。ただ「多数決は気分が悪いもの」になります。意見の相違が明確になり、勝ったものと負けたものが明確になるからです。今の国会の混乱の原因に「できれば満場一致で決めたいのに、それを邪魔するヤツがいる」と意識が存在すると私は想像しています、私どうよう「事を荒立てたくない」だろうと思うのです。

 

日本が戦争のぼろ負けして70年経った年にジャーナリストの田原総一郎さんが70年前の戦争の「総括」をした方が良いのではないかと発言されていました。私は「そうだな」と思いました。もう日本が戦争に負けて70年たったのだから、あの戦争は何であって、どういう事であったのかをまとめて良いと思ったのです。しかしそういう動きはありませんでした。

 

これは私の想像ですが、戦争についてことを荒立てると「誰かが困ったり」、「誰かが傷ついたり」、「誰かが責任を取る必要性が発生する」可能性があったからなのではないでしょうか。

 

私にとっての1995年にはいろいろな意味がありました。オウム真理教地下鉄サリン事件があったのですが。あの時に「オウムを憎まないお前を憎む、あるいは糾弾する」という明確な意識が日本中にあったのです。このオウムの場所は亀田興毅さんであるとか北朝鮮であるとかISが入ることになる先駆けであったと想像しています。またあの時には朝から晩までオウムの事件でテレビが埋め尽くされていたのですが、そうは言ってもテレビを観ただけでオウムの事件がわかるはずはありません。その後の詳細な調査や研究がなされて、それを目にして、考えながら「わかっていく」ような大きな事件でしたから。(これはテレビ批判ではありません。テレビだけではなく本であるとかレンタルDVDであるとかを使って総合的にわかっていくのが筋であるような事件だったのです)ですがテレビを観ただけでオウムの事件がわかったと勘違いをしたひとが多数いたのです。その人たちが無能だということではありません。テレビを観ただけでは読解不能な事件だったのです。でもテレビを観ただけで「オウムの連中のことはわかった」と勘違いをした人が多数いました。あるいは、ある文化人の方の発言のニュアンスが揺れていることがわかることを自慢するひとも多数いたのです、。その方の発言のニュアンスが揺れていることは当然でしかありませんし、発言のニュアンスが揺れていることとオウムの事件そのものとは無関係です。しかしある文化人の方を発言が揺れていることの方がむしろその人には大問題であったのようなのです。その後に日本で起きた種々の事件でそういうことが繰り返されています。あるコメンテーターの方のコメントに一貫性がないのではないかという批判が時々あります。しかしコメンテーターの発言に一貫性が存在するようなことがありうるのか私には疑問です。いわばど素人の発言でしかないのですから。その筋の専門家のコメントが揺れるようなことがあっては困りますが、コメンテーターの発言には当然ゆればあるものなのではないでしょうか。いわば司会者に無茶ぶりをされてその場で答えているのですから。

 

今オウムの事件について少し書いたのですが、これを読むとオウムの事件の「総括」がとても難しいことがわかると思います。オウムの事件の「総括」をするとあの時に大人だったひと全員が責任を取らなければならない可能性が出てくるのです。

 

自分が責任を取る必要性があるのかもしれませんし、誰かが責任を取る必要性があるのかもしれません。

 

私の憶測なのですが、日本だけのことなのかどうかは不明なのですが、「責任を取ることを嫌う」ことが原因になって「総括できない」という事態が発生する場面が多々ある気がするのです。

 

今の日本社会の誰が責任を一番もっているのでしょうか。

 

それは一国民一人一人です。

 

つまりあなたが一番責任をもっています。

 

「総括の難しさ」のポイントはココなのだと私は想像するのです。

 

自分が責任を取るのもイヤなら、誰かが責任を取るのもイヤな社会に日本社会が陥っているのではないでしょうか。

 

これは簡単な問題ではありません。それは日本が相対的な社会だからです。この文章を書いているときには成宮寛貴さんの事件がワダイです。成宮寛貴さんのことに関して絶対的な社会であれば、ある種簡単です。(これはそうしろということではまったくありません)、絶対的な社会であるのなら「成宮寛貴さんを死刑して終わる」こともありますし、「ムチ打ち100回で終わる」こともありますし、「なんのとがめなしに終わる」こともあるのです。それは唯一絶対神との契約上そうなったり、重要な経典の記述上そうなるのです。絶対的な社会であれば、そういうことを誰かが変えることは基本ないのです。

 

相対的な社会では、これが「揺れる」ものなのです。そして「決定的な決断がしずらい」のです。

 

唯一絶対神との契約上そうなるのであれば、あるいは重要な経典の記述上そうなるのであれば、ある種「楽」です。唯一絶対神や重要な経典が「責任を担保」してくれるからです。しかし日本ではそういう「責任を担保」してくれる何かが「薄い」です。当然「決定の重み」は相対的な社会がより重くなります。

 

あなたの責任が重くなりますから。

 

これは「システム」として「社会」をみればそうなるということです。

 

日本人の気質とは言い難いということです。

 

でも気質ととらえることもできます。「日本人の気質はそういうシステムをつくった」ととらえれば、原因は日本人の気質になるからです。

 

あるいは産業構造と関連づけることも可能です。たとえば稲作です。稲作を維持するためにはどういう気質が必要で、そういうシステムが必要なのかととらえることもできるからなのです。

 

あなたの世の中への見方は複数あるのが一般的です。

 

それは学問分野がいろいろあることと関連しています。「政治学の見方」、「経済学の見方」、「精神分析学の見方」、「歴史学の見方」など複数あるのですから。

 

これは一言でいうと「私も含めて全員勉強しましょうか」ということになります。