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世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

ポジティブシンキングが誤解されているようです 「ウソをつくのはやめましょう」

ポジティブシンキングを「嘘をつく」ことだと誤解しているひとが相当数いるのではないかと想像しています。実際にそういう場面にも遭遇しますし。

 

ある家です。お父さんはそうとう立派な方で退職されていました。ご長男は親のコネであるところで働いていたのですが、精神疾患を発病して仕事を辞める訳にもいかずに苦しい状況です。二人兄弟で弟さんがいるのですが、弟さんは引きこもっています。この状況でそのお兄さんの方が言うのです。「ウチは明るい」と。これはウソです。その家は暗い状況ですから。事実の誤認でしかありません。しかもそのお兄さんはとても小心な方なのです。今はお付き合いがありませんが私は「ホントにこの人は小心なひとだ」と思っていました。しかしご本人は豪快なつもりです。そのことは本人にもわかっていたはずなのです。しかも十分過ぎるほどにわかっていたのです。

 

結局そのひとはひさすら「ウソをついていた」だけなのですが。

 

別にその人ととがめだてするためにこの話を書いた訳ではありません。こういう事がどうも日本社会に蔓延していると私が思っているのです。

 

ポジティブシンキングは「ウソをつくことだ」と誤解されているようです。私は前にも書いていますが、浄土真宗門徒生長の家の誌友です。生長の家が相当早くにポジティブシンキングを日本に紹介したようなのです。生長の家の本にたとえばこういうタイトルのものがあります。(これは正確な引用ではありませんし、生長の家への勧誘でもありません)「荒波を楽しもう」。これを事細かに説明するのですが「荒波は荒波でしかありません。でも荒波でサーフィンをするひとがいます。荒波は荒波で、それは厳しい現実で、厳しい現実であることは受け入れるのです。認識するといっても良いでしょう。この厳しい現実を受けいれることがポジティブシンキングの第一歩です。これがツライから厳しい現実から多くの場合に逃げたくなります。つまり厳しい現実を認めたくない気持ちになるのです。それはとても普通のことです。誰もが厳しい現実を認識はしたくありません。その認識には痛みがともなうからです。ですからポジティブシンキングでも厳しい現実を正しく認識することを否定などしないのは当然のことです。ただ重要なので繰り返し書くのですが、「痛みとともに厳しい現実を受け入れること、正確に認識することがポジティブシンキングの第一歩」です。

 

もちろん、その受け入れや正確に認識しろというのであればポジティブシンキングではありません。その「厳しい現実の受け入れや、厳しい現実を正確に認識すること」は誰にとってもツライことだからです。

 

だからこそのポジティブシンキングなのです。その「厳しい現実の受け入れや、厳しい現実を正確に認識すること」はあまりにもツライことですよねと続きます。その「厳しい現実を受け入れや、厳しい現実を正確に認識すること」は当然誰にとってもツライものです。だから「こういう考え方を私たちは用意していますから、それを勉強してください」とつづくのです。そこがわかると(それが真実かどうかは別の話です)「厳しくツライものでしかない現実」をあなたは(まず)受け入れることが出来ます。そして対処ができます。さらに(十分に勉強したひとだけですが)「楽しむこと」さえできるようになります。

 

これが私なりの解釈のポジティブシンキングです。伝わったでしょうか。

 

ポジティブシンキングはウソをつくこととはまったく違うことです。まったく違うのです。でも本人にも「ウソ」だとわかりきっているのに、なにやら「明るいこと」や「前向きなこと」をいえばいいという考え方が日本社会にはびこっているようで私は正直相当カンに障ります。

 

それは単なる「ウソ」です。ウソでしかないです。でもあなたにはわかりますよね。日本社会にウソが蔓延しています。

 

簡単な話です。私はウソを見聞きすると不愉快な気分になります。そのウソがどうやらポジティブシンキングへの誤解に基づく場合が多々あるように思えるので苦言を呈しました。

 

私も年ですし、苦言を呈するくらいことはさえてほしいなと思って(考えて、感じて)います。

 

「ウソをつくのは辞めましょう」。