私はどこかの新興宗教に入ろうと迷ったはてに生長に家に入りました。
改宗しないで良いし、リーズナブルだし、家族や親せきもOKですし。
生長の家って朝の5時から瞑想と祈りをしているので、そこに参加していて、当時私も若かったので、生長の家の若い友人が欲しくなりました。
そこにいたひとに聞くと「あなたは大学に行ってるでしょ、その大学にサークルがあるからそこに行けば」と言われたのです。
そのサークルに行きました。
驚きました。
私は当時ちょっとどころか相当困っていて、だからこその新興宗教だったのです。
その困っていた内容はちょっとまだ書けないのですが。
そこでは天皇陛下が日本が戦争に負けて御巡幸された記録や御詠歌(天皇陛下が詠まれた和歌)を読んだり、覚えたりしていたのです。
それはとてもいいことだと思いました。
ただ私は困り果てての新興宗教でしたし、当時困っていた事柄が天皇陛下の御巡幸の記録を読んだり、御詠歌を読んだり、覚えたりすることでは解決しないとしか思えなくて、「弱ったな」と思っていたのです。
同学年に当時の実家のそばに住んでいたかたもいて、心苦しかったのですが、サークルからは離れていきました。
ただ生長の家との付き合いは今だにあります。
友達になったひとで自分は貧乏右翼だからというひとが私が生長の家の誌友だと知ると喜んで「ライトで行きましょう」とある時期言ったのも覚えています。
彼の当時の話は笑い話のようなのですが、ある時期の「右」のありようを表現していると思うので書かせてもらいます。
彼は仲間と街宣車をもっていたのです。
それで何かの集まりに出かけていたらしいのですが、街宣車であるわけですから「音」を流すのです。
普通は「音楽」です。
その「音楽」を何にするのかで彼が悩んでいたのです。
彼は「軍歌は違うと思う。でも前にあるところで一緒だった街宣車がアンパンマンマーチを流していて、それも違うと思うんだけれども。・・・でも何を流して良いのかがわからないんだ」というのです。
冗談のようなのですが、ある時期の「右」はこういうことでしかなかったのです。
鈴木邦男さんが70年安保当時に「右がホントに弱くて、苦しかった」という話もわからなくもないのです。
80年代も「自分は右」なんて到底言えるような状況ではなかったのです。
「右=危険」ということが当時は「普通」でした。
「危険分子」でした。
私は懐疑的すぎて、「思想」とか「信念」とか持ちえない人なのですが、それでも確実に「危険分子」でしかありえない状況なのです。
当時「左」の友達もいて、彼らも結構大変だったのですが、「左」の友達がどこかの国にいってくると地元のテレビ局から取材を受けていたりしたものなのですよ。
当時、日本で権力を(もちろんマスコミはすでに第四権力と呼ばれていたのですが)握っている存在へのカウンターが必要が時期だったし、それを主に担っていたのは「左」のひとでした。
だから当時「右」の存在意義みたいなものがよくわからない時期ではあったのです。
わかりやすくいえば、「日本国」(これは仮にですよ)がいて、ここがメインストリームです。
これに対するカウンターが当時強かったマスコミ一部と社会党と「左のひと」です。
じゃあ「右」はどうなんだということです。
「日本国」は味方ではないのです。
カウンターのカウンターといえば、そうでもあるし。
でも「居場所」がよくわからない状況です。
三島由紀夫も味方なのかどうかよくわからない状況です。
だから鈴木邦男さんもイリーガルな事をしていた訳なのです。
私はある種の「左のひと」を当時ひどくバカにしていて「単純サヨク」と言っていました。
しかし私はどうも「右」でしかないようなのですよ。
私もいってみれば「単純ウヨク」でしかないのですが。
今からおもえば、そういう友達の行動には意味があったのだと思うのです。
ある私よりも若い友人が「僕らがしている事ってダメなんだと思うんですよね。でも北朝鮮の船がここに来るらしいという情報があるから徹夜して見張っているんですよ」と微妙な表情で言っていました。
私も若干そういう事は知っていたので、「彼らが拉致被害者の家族会と関わりを持つ訳には多分いかない」と思って、内心苦しかったのを覚えています。
理由は「拉致」の問題はもちろん政治問題であり、政治課題なのだけれども、変な政治色をつけるような問題ではないと考えていたからです。
もちろん政治利用しようとする動きに関しては「激怒」でしかありえません。
ずいぶん私がオヤジでしかなくなったある日熊本に下通りという繁華街があるのですが、私よりも年上らしき人たちが集まって何やらしてるのです。
私はてっきりサヨク系の集まりなのだろうと思いこんでいました。
しかし、しばらく経ってそこにいくと内容が「右」だったのです。
私にはアリバイがあるので、言いもしませんし、近づきもしませんでしたが、内心思っていました。
「皆さんは僕らが孤立しまくっていた時にすでにいましたよね。でも僕は皆さんと同じ熊本みたいな小さな町にいたのに、存在すら知りませんでしたよ。皆さんは今まで何をされていたのですか。僕としては共産党員の方々が皆さんよりはずっと好ましいです。皆さんは右の旗色が良いなと思って、そういうことをなさっているわけですよね。皆さんみたいな人たちはたぶんいつでもいるし、そういう方々なのでしょう。でも僕にはアリバイがあるのでちょっと軽蔑します」と。
ネトウヨさんの実像は私にはわかりません。
であるとか、あきらかに「保守」の旗色がよくなった後に「保守的言動」を始めた方々をちょっと軽蔑させてもらっています。
そういう方々は「孤立」とか嫌いなんですよね。
私も嫌いなのですが、「孤立」せざるを得ない状況を経験していることが私のアリバイなのですよ。