成宮寛貴さんが引退されるそうです。
本当に私は残念です。
ネット上の記事を張っておきます。
これはスポーツ報知のURLなのですが。
今回の騒動の焦点は「コカイン」だと一般には思われています。
確かに「コカイン疑惑」なのです。
でも世間の噂によれば成宮さんはLGBTです。
成宮寛貴さんにとってはLGBTの件を持ち出されるのが、あまりに苦しかったのだと私は考えています。
LGBTの問題はやはり「重い」ようです。
世間では「笑い話」です。
その「落差」はあまりにも大きいのです。
当事者には「重い」事柄ですから。
私自身いろいろな場所に出ていき始めたのは「当事者」という言葉が出て来てからです。
ある障害者のセミナーのような場所でファシリテーターをなさっていた方が障害当事者でした。
一人の方は全盲で、もう一人の方の障害は私にはよくわかりませんでしたが。
そのセミナーの質疑応答の場である方が質問されたのです。
自分は障害をもっていないのだが、ファシリテーターになることは可能なのかと。
ファシリテーターのかたは、もちろんはそれは良いのだけれども今はまだ障害当事者がファシリテーターをする必要性がある時代だと考えているので、障害当事者だけがファシリテーターをやるようにしていますと答えていました。
LGBTもやはりマイノリティです。
私もLGBTなのです。
これは悪口ではないのですが、今のところパブリックイメージとしてはマツコ・デラックスさんやミッツマングローブさんのような方がLGBTだと認知されています。
そういうLGBTなら社会はなんとか受け入れるような状況です。
30代のLGBTの友達が言っていたのですが、彼は一回も自分がLGBTだと周囲に思われたことがないそうです。
私もある時に職場の人が「職場にゲイの人が来ないかな。そういう事があると楽しいんだけれども」と言っているのも複雑な気持ちになりました。
私がゲイだからです。
でもそれは言えないのが今の日本の社会状況です。
別の時に別の女性が「ゲイバーに言ってみたい」という話をしていた時にも複雑な気持ちになりました。
彼女が言う「ゲイバー」とは女装して女言葉を使うLGBTの人がやっている飲み屋です。
「いや、あなたの友達の私は実はゲイなんですが」とは言えないのです。
その二人は私がゲイだとはまったく想像だにしていないからです。
あるいはそのひとは男性なのですが、ナヨナヨしたひとが彼は嫌いなのです。
そして私にいうのです。
「おねえ系だかなんだか知らないけれど、ああいうのは嫌いなんですよ」と。
私はゲイですし、彼は友人なのですが、そこで私が「自分は実はゲイで」というは違うでしょ。
もし言ったとしても彼は「またそんな冗談を」で済ますと思います。
ある女友達も「あなたはゲイじゃないから安心して」とかいうのです。
私もなんだか忙しいひとで、自分がゲイじゃなかったとしても結婚はしていませんでした。
なんだか忙しかったのです。
自分がセクシャルマイノリティだということはそれなりの「重さ」があることです。
当事者にとっての「重さ」と世間での「笑い」の対象であるような「軽さ」のあまりの差に私はたびたび沈黙を重ねるしかない状況が続いているのです。
私には言及できない事柄ですが「笑い」の問題は想像以上に大きい問題です。
アメリカにレイスジョークというものがあるらしいのですが、それは「自分はユダヤ系だからユダヤ系はこうでしょ」というようなある種知的で自虐もはいった笑いのようです。
「知っている」という事は相当大きいことのようです。
ずいぶん前に上岡龍太郎さんの番組でゲイのひとが50人出演して話をしていました。
その番組の最後の方で榊原郁恵さんは「もう私はなんとかちゃんって実はそっちなんじゃないのとはいえなくなった」とおっしゃっていました。
「笑い」の問題はとてもセンシティブで、LGBTを笑ってはいけないというのはやはり間違っていると思います。
ただ「笑い」が専門の方なら誰にとっても当然のことですが、「笑い」の対象にされているひとがイヤな思いをするのは間違いだと思うのです。
ある種の「啓蒙」が必要です。
「啓蒙」というより「知識をもってもらうということ」ですね。
ある個人にフォーカスしたほうが良いでしょう。
ただデータ上で日本人の何%がLGBTだということも重要です。
ただ「このひとはこんな個人史をもっていて、そういうことがこういうひとには苦しいんだ」ということが「わかる」と(つまり知識を持つと)、そこで大きく「気持ち」や「ふるまい」が変わると私が信じているからです。
私は熊本の人間ですから、水俣病の問題は結構授業等で触れているのですが、はっきりいうと「暗くてイヤ」でした。
事実「暗い」面もあるでしょう。
でもそれがすべてではないし。
そういう意味でも「個人」にフォーカスした方が私は的確だと思うのです。
「個人」であれば「痛さ」や「滑稽さ」や「ずるさ」や「普通さ」が伝わると考えるからです。
我ながら「うまい」という場面が結構ありました。
友人が私に腹を立てて縁を切ったのです。(友人の方がです)
ただいつも長電話をしていたのに、その日はなんだか電話したくなくて彼からの電話に数回出なかっただけなのですが。
そのひとは本当に卑劣なひとで、そんなひとを友達にした私がバカだったし、彼に自分がゲイだといったのも間違いだったのでしょう。
ただ彼は映画「フィラデルフィア」を観ていたひとだから、それなりにわかっていると勝手に思い込んでいました。
アマゾンのリンクを張っておきます。
映画「フィラデルフィア」はHIVに感染しながら弁護士事務所で働いていたゲイの弁護士が不当解雇されて、「自分はゲイが大嫌いだ」という黒人の弁護士ととも元務めていた弁護士事務所と法定闘争をする物語です。
この話が面白いのは黒人の弁護士さんは「ゲイが大嫌いだ」というところです。
ネタバレになるのですが、ある場所で黒人の弁護士さんが「あなたはあの裁判を担当していますよね」という話の流れでゲイの黒人青年に体の関係を誘われて、このひとは本当に不愉快でしかないという経験もするのです。
そういう映画も彼は観ているわけだし、大丈夫なんだろうと思っていたのです。
でも彼は、そんな事実はないのですが、嘘の話を結構していたらしいのです。
ある共通の友人から言われたのです。
「あのひとが言ってましたよ。あのひとはゲイだから気をつけろって。オレあのひとからベッドに誘われたし」と。
私は当然そういうことはしていません。
彼とはただの友達でしかなかったのですから。
卑劣でしょ、そのひと。
ただ、その時の自分の切り替えしがあまりにうまかったので、自分でおどきました。
「いやね、だいたい僕はゲイじゃないし(これはウソですが)、100歩ゆずって僕がゲイだとしても君とはしない。なんで君なんかとしなきゃいけないの、あいては選ばせてもらうわ」。
こういったのです。
そうすると彼は「それはなんかイヤじゃないですか」というのです。
我ながら「うまい」と思うわけです。
私は著名人ではないので、この程度の切り替えしができれば乗り切れるのですが、成宮寛貴さんは著名人だから、この程度では済まないということを、今回の問題が物語っているものだと私はみています。
マイノリティの問題は当事者にとっても、当事者以外にとっても難しいものです。
それは私がある人にであるとか、ある状況下では「自分はゲイだといい」、ある人にであるとか、ある状況下では「知らん顔」をしていることとも関係があります。
簡単な話、いきなりあなたの親しい友人から「オレ実はゲイなんだよね」と言わるとあなたが困るでしょ。
あなたが困りますよね。
LGBTの周囲のひとは、そういう問題にどういう対応をして良いのかわからなくなって困るんです。
もちろん簡単にあなたがそういうことを「受け入れられる」なら話は別です。
もしあなたに息子さんや娘さんがいて、そのひとがLGBTだったとしたら、たやすく受け入れることができますか。
「できる」のかもしれません。
しかしそれは「苦渋の果て」にできることです。
だから「この人は対応できるな」と思えば言ったりもするし、「この人はそういう事を言われると困るんだろうな」と思うと「知らん顔」を決め込むより他私にはないでしょ。
「状況」の話も同じです。
たとえばあなたの職場にLGBTのひとがいるとしましょう。
その人が「同性の誰かと付き合っている」という話を職場でしたら職場は「凍りつき」ますよね。
そのドラマであるとか、テレビの中であれば「まあ良いのかな」と思っていたとしても、「職場の世間話」でそういう話題になると「凍り付き」ます。
だから私はケースバイケースで対処するしかありえないのです。
追記しておきますが、「カミングアウト」という言葉は広く認知されています。
ただ世間一般に解釈はそうとう違っています。
「カミングアウト」とはせっぱつまってするものでしかありません。
いろいろな場面な状況で「せっぱつまって」しまってどうしようもなくなった人がするものです。
気軽なものではありえないのです。
私にはわからないことなのですが、日本はグレーゾーンが広いのかもしれません。
だいたいこんな文章を読まされて、あなたは正直言って迷惑していますよね。
私自身LGBTの問題は「グレー」で良いとずっと考えて来ましたし、今もよくわかりません。
私自身は「グレーゾーン」にいて、それなりの対応ができるからです。
実際「白黒つければよい」ということではないと考えています。
「白黒つけた」後に大きなわだかまりが日本社会にできると想像しているからです。
日本社会は「グレーゾーン」が広い社会なのかもしれないと私はいうのは日常的に私自身が誰と話しているときに「ここは曖昧(グレー)のままにしておきましょう。ここをつきつめたり、白黒つけるのは違いますよね」と話している相手とどこかわかりながらホントにそこを曖昧(グレー)のままにして流している場面が多々あるからです。
「ここをつきつめたり、白黒つけるようなひとは大人ではない」くらいに感じても、考えてもいるのです。
具体的なエピソードをあげると今で言えばパワーハラスメントです。
その時にはそういう言葉はありませんでしが、でも上司が日常的に当時の私にいっていた内容がどう考えても何らのカタチで法律に抵触するとしか思えませんでした。ヒドイことを言うひとでしたし。だから「この発言を録音して裁判に持ち込む」と私は勝って、この人は負けるのとしか思えないし、一部マスコミもこの人の発言には大きな問題があるという風に報道すると実は思いながら罵詈雑言を浴びていたのです。
でもここで「裁判闘争をするのは大人ではないので良い頃合いでここを辞めればいいだけだ」と内心思っていて、あるタイミングでそこを辞職したのです。辞める時にもやはり罵詈雑言を浴びましたが。
ある友人(というより私の師匠)はある病院で診察を受けていて、「この医者の言っていることや出している薬が明らかにおかしい」と思っていたそうです。だからICレコーダーで診察中のやり取りを録音して、処方箋を取っておくなりコピーを取って医療裁判に持ち込むとこのお医者さんはおそらく医師免許をはく奪されて、自分はお金をもらえると思っていたそうです。実際そこではラチがあかないと思って他のお医者さんに薬の処方箋を見せると「こんな薬の出し方はおかしいです」といわれています。
でも二人とも、その場面で「白黒つけて」はいません。二人とも「裁判」に持ち込めば「自分が勝つ」とは思っているのですが、それはしないんです。あなたもそうですよね。こういう事はたぶん誰でも経験しているはずです。あなたも日常的にはあえて曖昧(グレー)のままにしていますよね。
あるいは「白黒つける」と大金が必要な場合もあります。
これは身体に障害がある場合にそういうことがあって、それはよかったことです。今は普通に障害者用トイレ(正式名称は高機能トイレらしいのですが)があります。それなりの場所や施設であれば日本中にあるはずです。
あのお陰で身体に障害がある方は助かっているはずです。しかし障害者用トイレを日本中につくるためには膨大なお金がかかっています。いろいろなカタチでの働きかけや場合によっては裁判闘争を繰り返した結果やっとできたのです。
その友人も大学側の対応も素晴らしかったと私は考えているのですが、彼が電動車いすです。もちろん頭脳明晰なひとです。彼は今大学院生なのですが、彼にもちろん学力があるからこそなのですが、彼は大学受験に成功し、その大学で学園生活をおくり、今は大学院生です。たぶん彼一人を受け入れるために大学側は数百万円から場合によってはそれ以上を超えるお金を使って大学をバリアフリーにしています。
「内需拡大」であるとか「雇用の促進」という意味もありはしますが、それでも数百万円から場合によってはそれ以上のお金を大学側は、彼一人のために使っているのです。
もちろん素晴らしい決断だったと私は考えています。
これは教育評論家の尾木直樹さんがどこかで発言されていたのですが、ある国ではトイレが男性用と女性用のほかにもう一つあるそうなのです。障害者用トイレではないのですが。トイレ一つ取ってもそうですし、場合によっては「更衣室」も男性用と女性用のほかに必要になるかもしれません。
「意識」だけでは済まないのです、「建物」も多くの場面でアチコチ変更しないとLGBTを社会が「白黒つけて」受け入れたことにはならないので、多額の費用が必要になるのです。
ネットニュースで「5時に夢中」での中尾ミエさんの発言をしりました。
私はこれは中尾さんの成宮さんに対する「激励」なのだと想像しました。
ネットニュースの引用によれば中尾さんは「こういう事で徹底的に戦わないって事はやってたって事なんじゃないの。普通こういう事があって、違うんだった徹底的に戦うでしょ」といったという事なのです。
言葉してはそうです。
私がこれは中尾さんの成宮寛貴さんに対する激励なんだと思いました。
「成宮君、芸能界ってこういう事がある所なの、そういう時には絶対負けちゃダメ。戦うのよ。私もいろいろあったけど、やっぱり戦って生き残ってきたの。あたなにもはソレはわかるでしょ。だからココで戦いなさい。そして芸能界で生き残りなさい。あなたにはできるでしょ。そういう事が今のあなたには必要なの。そういう場面なの」という意味の発言だという解釈を私がしたからです。
ただ中尾さんが言っている事は「白黒つける」という事です。
この件で「白黒つける」のは成宮さんにとっては厳しいと思うのです。
この件でザ・グレート・サスケさんが怒っています。ごもっともです。はっきりは書いて発言されてはいないのですが、発言の趣旨からするとサスケさんの息子さんが成宮さんにセクシャルハラスメントを受けたことがあるらしいのです。
親御さんとして、そういう事があったのなら成宮寛貴さんのことを許せないのは当然ですし、はらわたが煮えくり返るのも当然のことです。
しかしザ・グレート・サスケさんご自身は当然異性愛者なのでしょう。という事は女性が好きですよね。ザ・グレート・サスケさんご自身は女性に大してセクシャルハラスメントをしたことが一回もないと言い切れるのでしょうか。
これは仮の話です。ザ・グレート・サスケさんがある女性にセクシャルハラスメントをして、しかもその女性のご両親がその事をしっているとしたら、その女性のご両親はサスケさんの事をありえないくらいに憎んでいると思います。
ザ・グレート・サスケさんは女性にたいしてセクシャルハラスメントをしたことが一回もないと言い切れるのでしょうか。ほとんどの男性(それが異性愛者だろうとLGBTだろうと)は「言い切れない」のが普通だと私は考えています。私にも「言い切れません」。
このことには理由があります。これは大阪医科大学のホームページからのコピペなのですが、ハラスメントとはこういうものだからです。
「ハラスメント(Harassment)とはいろいろな場面での『嫌がらせ、いじめ』を言います。その種類は様々ですが、他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを指します。以下に一般的なハラスメントの定義をご紹介します。
セクシュアル・ハラスメントとは? セクシュアル・ハラスメントとは、本人が意図する、しないにかかわらず、相手が不快に思い、相手が自身の尊厳を傷つけられたと感じるような性的発言・行動を指します。」
ハラスメントをしている側の「意図」とは関係なく「相手が不快に思い、相手が自分の尊厳を傷つけられたと感じれば」ハラスメントが成立したことになるからです。
ですからサスケさんに悪意が害意や相手を傷つける意図や恥ずかしめる意図がまったくなかったとしても、もしそれが好意に基づくものったとしても、「愛情表現」であった場合ですらもハラスメントは成立するからです。
ザ・グレート・サスケさんが記者会見を開かれました。その内容を張っておきます。そういう事情があったのだと私は初めてしりました。サスケさん、大変失礼しました。
これは厚生労働省のホームページからのコピペです。
PTSDとは
「PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)は、強烈なショック体験、強い精神的ストレスが、こころのダメージとなって、時間がたってからも、その経験に対して強い恐怖を感じるものです。震災などの自然災害、火事、事故、暴力や犯罪被害などが原因になるといわれています。
突然、怖い体験を思い出す、不安や緊張が続く、めまいや頭痛がある、眠れないといった症状が出てきます。とてもつらい体験によって、誰でも眠れなくなったり食欲がなくなったりするものですが、それが何カ月も続くときは、PTSDの可能性があります。ストレスとなる出来事を経験してから数週間、ときには何年もたってから症状が出ることもあります。こうしたつらい症状が続いているときは、専門機関に相談しましょう。」
私自身もPTSDを抱えていましたし、また熊本地震で死にかけてPTSDを抱え込みました。確かに成宮寛貴さんの件もからんでいるとは思います。ただPTSDのわかりやすい例が映画になっているので、もしサスケさんが構わないと思うのなら、その映画を観てほしいのです。
映画「ランボー」です。アマゾンのリンクを張っておきます。
アマゾンにも楽天にもなかったので古本屋さんのリンクを張っておきますが、PTSDとも言いがたいのですが、ある種の精神の極限状態を描いた漫画があります。山岸涼子さんの「スピンクス」です。
この漫画を私は10代の頃によんで「わかる」と思いました。ある種の「苦しさ」のようなものを抱えているひとや、そういうひとをわかるためにはぜひ読んで欲しい漫画ですし、この漫画を読むとサスケさんは今の息子さんの様子がわかりやすくなのかもしれません。
スピンクスの主人公は精神の極限状態にまで追い詰められているという設定で、その主人公に周囲がどういう風に映っているのかを、そうとう的確に描いた作品なのです。
二作品にぜひザ・グレート・サスケさんに触れてほしいと私は考えています。
二十歳くらいの時のことを私は今でも明確に覚えています。私は自分で自分のこころの扉を閉じていると感じていました。でも自分で閉じたはずのこころの扉を当時の私にはどうしても開けることができなくて苦しかったのです。
ただ「簡単なことではない」とだけ言っておきます。
そしてこれは私の「保守性」だと思うのですが、「権利」であるとか「主張」であるとかに「違和感」があります。
そういうことでもあるのですが、そういう事だけでは「補足」できない何かがあるような気がしてならないのです。
ある種の「微細な何か」です。
成宮寛貴さんはコカインをやっていたのかもしれません。
ただ、そのことを明解にするのは「裁判」という場です。
公(パブリック)でしかない場所です。
後ろにはカメラこそまわせませんが、芸能マスコミが山のようにいます。
そういう場所で、あなたは自分がベッドでしていることを詳細に述べる(口に出して詳細に的確に言う)のはイヤですよね。
それは誰だってイヤです。
成宮寛貴さんのコカイン疑惑を晴らすためには、そういうことをしなければなりません。
もし事実成宮さんがコカインをやっていなかったとして、繰り返しになるのですが、彼がベッドの中でしていることを裁判という公(パブリック)でしかない場所で、芸能マスコミの前で、詳細に述べる(口に出して詳細に的確に言う)必要があるのです。
そういう局面に成宮寛貴さんは追い込まれてしまったのです。
彼がコカインをやっていたのか、やっていなかったのかは、あるいは彼がLGBTなのかどうかも、私には不明です。
ただそのことを明解にするためには、もう書きませんが、そういうことをする必要があります。
それがあまりにイヤだから「引退したほうがましだ」と彼が思ったとしても、それは普通だと私は思います。
難しい問題です。
あまりにも酷な場面に成宮寛貴さんが立っていると私は思うのです。
「引退」という選択だって当然ありえます。
私の説明でちょっとは事情がつたわったでしょうか。