世の中には、本当にどうでもいい話題がありますよね。
女性にとってはたぶん意味が違うのですが、代表が「芸能人のスキャンダル」です。
「どうでもいい」でしょ。
そんなことは「どうでもいい」んですよ。
でもなんか心惹かれて読んだり、観たりするじゃないですか。
私もそうなんですよ。
そういうときには、ある「心構え」をもって読んだり、観たりするのものです。
それは「こういうのを読む、あるいは観る自分はダメなヤツだよね」という「心構え」です。
あなたがダメなひとだということではまったくありません。
人間は誰もが多面的な存在です。
「立派な部分」もあれば「くだらない部分」もあります。
ああいうスキャンダルに反応しているときは「くだらない部分が反応している」と考えて読んだり、観たりするのです。
そういう「くだらなさ」もあるのが人間ですし、それを「否定」するのは違うと私は考えています。
でもそこは「くだらない」部分が反応しているだけなのです。
そうでしょ。
だからそういう件に関して「報道の自由が」とか肩肘をはるのはおかしいのです。
あるいは「マスコミの連中ってダメなんじゃ」とか思う必要もありません。
何故なら、あなたにはそういう「くだらない部分」をもっていて、そこをある種のマスコミは満たしてくれるからです。
日本でもポルノを解禁するときに、(当時はネットがなかったので)お役所にはあるイメージがあったらしいのです。
イギリスがそうなっているらしいのですが、街はずれのちょっとさびれて、どこかくすんだようなところにポルノショップがなんとなくあって、そういう場所でポルノグラフィーに買うのが普通だったらしいのです。
そういう「街がずれ感」であるとか「くすんでいる感」がそこでは当然大事なことですよね。
そういう場所に行くことにも、やはり「街はずれ感」や「くすんでいる感」があるでしょ。
「オレなんかどうでもいいことをしているよね」と思いながらなにかをすることってあるじゃないですか。
違法なことではないのだけれども、「これってひとに自慢するようなことではありえないし、場合によってはひとからバカにされるようなことでしかないよね。でもそういうことをする自分もいるわけだし。でもこういうことをする自分だけが自分のすべてではないし」とか思いながらすることですよ。
なんかそういうことがあるでしょ。
ありますよね。
芸能人のスキャンダルのスキャンダル報道を読むとき、観るときも、そういうことでしかありえないです。
誰だって、そういう部分はあります。
だけれども「街はずれ感」や「くすんでいる感」とともに接することが必要です。
難しいことじゃないですよね、今まで書いてきたことって。