私はアホみたいに書いています。
しかし基本話すひとではないです。
昔読んだ笠井潔さんの小説の一説がみょうに記憶に残っています。
そこは(多分)笠井潔さんの実体験に基づいているのだと私は想像しています。
ある若者が、彼は左翼革命に入れ込んでいるのですが、彼の先輩が安い飲み屋でホッピー(安いお酒です)を飲みながら労働者をオルグするコツのようなものを話しているのを聞いている場面です。
左翼革命の当事者は、学生ではなくて「労働者」ですから、「労働者」に動いてもらう必要があります。
しかし当時学生の一部は動くのですが、「労働者」が動いてくれないという状況がありました。
オルグはググってください。
ここでは「勧誘」みたいな意味です。
学生が「どうしても労働者に動いて欲しい」ので説得していたのです。
この一節は笠井潔さんの実体験に基づいているのだと私は想像していますし、そういう「言葉」への「態度」のようなものがあった若者はのちに作家になるのだろうと思うのです。
私は時々詩を書きます。
「詩人」というとなんかカッコよくてというイメージがあると思うのですが、私はさえないオヤジです。
友人にIさんというひとがいます。
私はIさんには話しをします。
Iさんには「つたわる感じ」がするのです。
ある時Iさんと話しているときに、私は「断片」と言いました。
Iさんは「わかります」と言ってくれます。
別の時に私が「小学生の時にランダムという言葉を覚えました」というとIさんは「早かったですね」というのです。
また違うときに私はIさんに「Iさんは辞書マニアじゃないですか」というとIさんは「そうなんですよ。僕は一々語釈を観ないと日本語が使えなくて」というのです。
たとえば今私は「語釈」という言葉を使いました。
Iさんは「語釈」と出会ったときに辞書をめくって、「語釈」はこういう意味なんだと納得しないと日本語がつかないひとなのです。
私もIさんも、おそらくもって産まれた障害があります。
なにかがお互い欠落しているのでしょう。
そこは私にしてもIさんにしても死ぬまで埋められないところです。
お互い、その障害や欠落をおぎなうためにはわけのわからない努力のようなものをしてきたようです。
ある詩をIさんに読んでもらったときに、「これってこういうつもりで書きました」というとIさんは「それは普通なんですけれども、そういうことがどうしても伝わらくて困っているんです」とIさんは言います。
これから書くことは本当かどうかは私にはわかりません。
ただ私はそう考えているというか、感じているというか、信じていることですし、Iさんも同意している内容です。
私が書いた詩の説明は「人間どうしってつながっていないじゃないですか。だから言葉をいくら磨いても届かないですよね。でも、それは私が勝手にそう信じているだけなのですが、自分の奥の方に降りていって、ある深みに達すると、その領域ではほかのひととつながっている気がするんです。だから私は詩を書きはしているのですが、言葉じたいはそんなに問題にしていないんですよ」と言ったものです。
それは私が勝手に信じているだけのことです。
精神分析学の用語でいうと「意識」の下に「無意識」があり、もっと下にいくと「イド」とか「エス」とか呼ばれる領域があるということになっています。
これが事実なのかどうかは私にはわかりません。
ただ人間どうしがつながるとすれば、私とIさんにとっては「意識」の領域でも「無意識」の領域でも、それは「不可能」なことでしかありえません。
ただ「イド」や「エス」と呼ばれる領域だけで可能だと二人は信じています。
これはたとえ話です。
人間どうしは隣あった「池」同士のようなものだと考えてください。
おたがいにしょせん別の「池」です。
そこではつながりようがありません。
ただ実はその「池」のそこのほうには共通の水源のようなものがあって、そこでは「つながっている」と二人は当然のことのように信じているのです。
共通の水源のようなところでしか人間どうしはつながることは不可能なんだということでもあります。
私とIさんにとって、これは当たり前すぎてわざわざいうまでもないことです。
しかし一般的には、どうもそうではないようです。
実は私もIさんも詩歌をやっているひとを激怒させた経験があります。
お互いに自覚していなかったのですが、ひどく相手を傷つけたからです。
「それってものづくりっていえますか」であるとか、「それって遊んでるだけじゃないですか」みたいなことを私もIさんも言ってしまっているのです。
そうとううまいし、評価も受けているひとに、そういうことをいえば激怒されますし、それは当然なのですが。
でも私やIさんにはそういう風にしか思えないのです。
どうしても。
私が書いている内容は「伝播」していますか、伝っていますか。