これは教育評論家の尾木直樹さんが実際に中学か高校で教師をなさっていたころの話です。
担任を持たれていたのかな。
あるときに教室に入ると、ある男子生徒がロッカーに閉じ込められていたという場面です。
その生徒が慌てて出てくるんだけれども、「なんだか楽しそうだった」というのです。
もちろんほかの生徒に閉じ込められていたんですよ。
だいたい私はイジメという言葉がなんか好きではないです。
理由は「抽象的すぎる」からです。
私にはピンとこないんです。
イジメという名詞が。
どこか違和感があります。
でも私自身もほかのいいまわしは浮かんできません。
「イジメ自殺」ってそうとう抽象的ですよ。
現実はもっとひどいはずですし、怨念みたいなものが渦巻いているはずです。
だって人命が失われているわけだから。
尾木さんは「わかって」激怒しているんですね、「私の生徒にロッカーに閉じ込められて喜ぶような生徒がいることは私は我慢できません」と。
こういう言い方じゃなかったのかもしれませんが。
ただ尾木さんはいつも「こういう感覚」の方です。
全然違うひとで「こういう感覚」があると私にみえるひとがいます。
企業家の堀江貴文さんです。
だから堀江貴文さんと尾木直樹さんがネット上で言い争った(つまり炎上した)と記事を観ても私は不愉快に感じないです。
実際にお二人があったら、「じゃあご飯でも一緒に」という流れになるだろうと私は勝手に想像しているからです。
「"I message"(アイメッセージ)を使いましょう」と結構前から言われています。
これは、あなたが管理職で部下の仕事にダメ出しをするような場面でもとても有効です。
「その仕事はダメだな」というと、これは客観的評価になります。
でも「僕はその仕事には納得がいかない」というと主観的評価でしょ。
友達と音楽の話をしているとときに、たとえばあなたがいう場面ですよ。
「あのミュージシャンはダメだな」というと、これは客観的評価です。
でも「僕はあのひとがなんか気にいらないんだよね」というと主観的評価です。
物の見方は複数あるのが普通です。
事実との仕事やミュージシャンはダメなのかもしれません。
ただ、そうは思わないひともいるのが普通です。
だから「悪いんだけど、オレにはそういう風にしか思えないんだよ。もちろんあなたには違うんだと思うよ。けどさ、それはひとそれぞれじゃない。でオレも一応言いたいとか言わなきゃということがあるじゃない。だからこれはその個人的にそう思うだけのことだよ。でもこういうことをいう必要が立場上あったり、ちょっと余計なことを言いたいか、そういうのって君わかるでしょ」という風な話の流れにしているのです。
それが「"I message"(アイメッセージ)の重要性」です。
場面によって違うのですが、「このひととコレを分かち合いたい」とか「このひとにこれを伝えなきゃいけない」とかいうことは当然あります。
そういう場面でこそ生きるのが「”I message(アイメッセージ)」です。
これはテクニック(技術)では、おそらくありません。
その発言のよりどころはどこなのかということが自覚できていないとできないんです。
つまらない結論ですが「自分の身体から出ています」という「感覚」がないとできないんです。
「軸」っていうか「核」っていうか、それは「自分の身体」です。
余計な話ばかりするのですが、ピカソの絵があるんですが、わけがわかりません。
あのわけのわからなさには理由があります。
ピカソはある一点から観ています。
当然でしょ。
だけれども、それが例えばコップだとしましょう。
コップって上から見たときと、横から見たときと、斜めから見たときではカタチが明らかに違いますよね。
ピカソはあきらかに「自分の身体」からみています。
でも対象を、複数の視点からみているように描いているから、わけがわかりません。
ピカソの「軸」や「核」が強力だったからこそできた仕事なのです。
尾木さんも堀江さんも「軸」や「核」が強力な方々のように私にはみえます。
だから、この言い方は使いたくないのですが、ぶれないし、ムダな争いをする必要がないかただと私には映るのです。
ネットで「炎上」しますよね。
ああいうことが日常的にあるということは今の日本人には「軸」や「核」が薄くなっているということだと私は思うのです。
「軸」や「核」がある人たちって、ムダにもめないものですから。
我慢しているということではなくて、「自分のモノの見方」や「考え方」は「自分の身体」から出ているという「感じ」がするので、ほかのかたの「身体」をいたわろうという「感じ」につながるからです。
「知識」もむろんタイセツですし、「素養」も「技術」も重要です。
でもそれは私がしつこく書いている「感覚」があればこその話です。
この「感覚」を強くすることこそがあなたの「発言」を強くします。
というよりもあなたの「存在」を強くします。
イジメの話にもどすのですが、あれは基本わかりません。
イジメまくられて、今の自分にはなんにもないよねと思っている場面です。
「自分は弱いしね、カッコよさなんてカケラもないしね、ミジメでしかないしね、今の自分ってクズ同然だ」
といじめられてる方が「感じて」います。
「こういう自分には自分で我慢できない」と「感じます」。
結果どうするかというと、ある詐欺を自分に対してすることが思い浮かぶのです。
「これって明らかに自分はやられているだけでしかないんだけれども、自分があえてこういう風にしていると思えばこの屈辱に耐られると思うから意識も行動もすり替えよう」という詐欺です。
結果まわりには「この人は楽しそうだな」としかうつらないのです。
自分の生徒をつかまえて「菌」と呼ぶって普通はないです。
ただ、その生徒さんは教師には、「そういう扱いをされることを楽しんでいるようにしか」見えなかったのです。
本当に思うんですけれども、こういう程度のことは、日本社会は何十年も前にはわかっていなければなかったはずのことです。
私はひそかに思っていましたから、「こういうことが見えない」っていうのが私にはわからないんですけれどもと。