私は50代前半ですし、日本のわたしくらいの世代で「貧乏」っていってもたかがしれています。
ただ似たようなひとと波長があうようで、同じクラス(階級)のひとと友達になり、貧乏話をしてきました。
違うクラス(階級)のひととも友達になるのですが、貧乏話はしてきていません。
わかるんですよ。
原因不明なのですが、「このひとは同じクラス(階級)だよね」だとわかります。
基本そういうひととだけお金に関する話をしてきたので、日本社会の「普通」がさっぱり私にはわからなくなっているようです。
たとえば私が育った家はオンボロ屋です。
小遣いもほとんどないし、子供同士の付き合いも出来ないんです。
それは例えば駄菓子屋さんに行って、「僕いらない」とかいうのはおかしいわけですよ。
だからそういう付き合いは子供の頃からしていないんです。
お互いにお互いの環境がイヤだったらしく、もう会うこともないのでしょうが、近所にやっぱり貧乏な家の子がいて、彼の家はトタン屋根でした。
彼はそれが本当にイヤだったのです。
高校を出てすぐ借金したおして家を建てたくらいです。
最初についた商売の師匠と貧乏話になって、「ウチは結構ひどかった」と師匠が言っていました。
「わらぶき屋根で、これが風流とか、そういうことじゃなくて、わらぶき屋根だから雨漏りがひどくて」とか。
そういうことが私には「普通」です。
大学も借金したおして行ったのですが、キャンパスでの会話とバイト先で友達になったひととの会話がまったく違っていました。
キャンパスは「普通」だったんでしょう。
バイト先ですよ。
もうそろそろ連絡を取ろうかなと思っている昔の友達は
「あんた本読むの好きでしょ。アドバルールを上げるバイトがあるんだよね。あれは朝アドバルールをあげて、夕方に下すのが仕事なんだけど、途中見張っていなきゃいけないでしょ。基本なんにもないけれど誰かいなきゃいけないから、あんたみたいに本が好きとかいう人には向いてるから」とか言われてバイトを紹介されるのが私には「普通」でした。
ほかのバイト先の友人の自慢話があって、彼は服を売っていました。
彼がいうのです。
「オレはバイトだけど売り上げが社員さんより上なんだよね。やるでしょ」とか。
私は「それすごいね」とか言っていました。
それが私や彼らにとっては「普通」です。
大学は中退したのですが、そのあとあったひととも謎の会話をしています。
ウチの父親が多重債務者で私が中学か高校から、借金には苦しんでいたのですが、同じように父親が多重債務者の友人ができるのです。
3、4人はいるな。
その中の一人と話をしていて、
「ああいうのを子供のころに経験すると、多重債務が怖くて、あれが底なし沼みたいに感じるよね」
私がいうと、彼が
「その表現はぴったりです」
とかいうです。
とかここではそういう話をしてもいいのかなと思っていうんですよ。
「大学の頃のアルバイトでみんなは遊び銭だけど、僕は米買ってたなあ。だって飯食べたいし」
というと、
「そうそう」とか。
こうのはたぶんおかしいと思いますが、そういうひとたちとの「お金にまつわる会話」しかほぼ経験がないので、「普通」かなくらいにしか思えないんです。
そういうことを言い合うひとが何故かいて、
「高校は貧乏人は公立だよね。私立は学力では行けてもお金ないから公立だけしか俺らいけないよね」
とかいうと
「そうですよね」
と相槌をうたれるから、これが「普通」なんだとずっと思ってんですよ。
でも、こういうの。
その貧乏すぎて友達が作れないとか、多重債務とか、公立高校しかいけないとか。
こういうのは多分「普通」じゃないんですよね。
「多分」なのですが。
とかね、こういう情感は本来小説とか、物語にとっておくのが筋です。
こういうところで書き散らすものではありません。
ただ、これは小林信彦さんに似たんだと思います。
小林さんが、先輩作家の方から
「小林さんがしていることはもったいない」
と言われているんです。
「小林さんはこれをコラムに書くでしょ。小林さんは小説家でもあるのだから小説にいかすんですよ」と。
でも小林さんはコラムに書くんですね。
私は小林信彦さんの不肖の弟子なんでしょう。
結局やっぱり今でも日本社会の「普通」ってまだわからないのですが、私からすると相当いいくらいなのだろうと思うのです。
「普通」レベルで暮らしたいのですが、皆さんそれで構わないでしょうか。
私はもう「貧乏」に飽きました。