世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

「学会」を作りましょう

アメリカ人はすぐなんとか学会を作りたがるという話を昔聞いたことがあります。

 

今から思うと「資金集めのために有利だ」という意味があるのかもしれません。。

 

テレビに出ている学者さんを見くびってしまうことがあります。

 

ひところの吉村作治先生を私はつまらない方くらいにしか思っていませんでした。

 

吉村先生の専門は考古学ですから、クイズ番組での解答やワイドショーみたいなものでのコメントがさえなくても当然なのですが、専門領域での仕事を私は知らなかったのです。

 

だからタレント教授なんでしょくらいにしか思えなかったのです。

 

吉村先生はテレビ出演には「資金集め」という意味がとても強かったようです。

 

普通にしていて発掘の資金が集まるほど「学者業界」はあまくないのでしょう。

 

これは文系にしても、理工学系にしても同じことです。

 

ただ日本でも、「学会」を作りまくるというのは良いアイディアなのかもしれません。

 

というのは学者さんは、「頭脳労働」というように「基本」考えたり、勉強したりする個人プレーヤーだからです。

 

なんでもいいです。

 

「辞書学会」とか、「ソクラテス研究学会」とか、「南方熊楠学会」とか。

 

こういうことに意味や価値があると私が思うのは、「集団」にならざるを得ないからです。

 

「学会」が基本資金集めもするし、何らかの「社会的発言が必要な場合」に一人の学者としてだけではなく「学会」という「組織」を使って発言するということが可能だからです。

 

問題のあるシステムの変革においても、「一人の学者」としてだけではなく、「学会」の一員として「学会」を使ってシステムの変革を行うということです。

 

これは誰もがそうなのですが、ある集団にいてうんざりすることがあります。

 

でもたいていの集団がそういうものです。

 

「複数の集団に所属しているひとたちは集団のプレッシャーが軽くなる傾向がある」と私はみています。

 

Aという集団にはうんざりすると思った場合に、Bという集団もあると思えるからです。

 

わかりづらかったと思うのですが、たとえば「学校」と「家」の往復というときにつらいとしても「バイト先」という集団があると気持ちがちょっと楽になりませんか。

 

「学校はイヤだな」と思ったときに「学校がおわったらバイトか」と思うとイヤですが、若干楽ですよね。

 

「家」も「学校」も「バイト先」もイヤだというときに、おすすめはしませんが、「悪い仲間」がいると思うと楽でしょ。

 

「悪い仲間」って結構そういう理由でできるような気もするのですが。

 

それはなんでもいいんです。

 

例えば私には障害があるので、障害者仲間がいます。

 

法人の副代表やら、物理学を専攻している大学院生やら、今必死でITの学校で勉強している学生さんやら、なんかあったんでしょうみたいな若いひとやら。

 

こういうのって良いでしょ。

 

SNSも問題がありますし、最近連絡を取っていませんが、久留米で日本語教師をしているひととのつながりもありますし、関西人なのかな沖縄で超一流のコーヒー豆を打ってくれるコーヒーの師匠やら。

 

複数の集団に所属しているほうが楽です。

 

私が障害者なかまがほとんどになったときにはやはりつらかったのを覚えています。

 

仕事仲間だけの時もやはりつらかったです。

 

複数の集団に所属しておいた方が楽です。

 

「学校と家」、「会社と家」はやっぱりツライです。

 

それは大げさにいえば「危機管理上」問題があります。

 

このことは教育評論家の尾木直樹さんも指摘していることです。

 

尾木さんのラジオでの発言を聞いてなるほどと思ったのを覚えています。

 

「藩校」はイジメの巣窟だったそうなのです。

 

しかし「釣りにいけば良い」とか「山で遊んでいるときがあるから」ということが救いになっていたらしいのです。

 

そのことを若いひとに話そうとしたのですが、うまく伝えることが出来ませんでした。

 

彼は当時24歳だったと思うのですが、私は彼にこういったのです。

 

「大学生が行き詰まってちょっと大学もイヤだし、家もイヤだしという場合になんとなくフラフラしていてもみんな結構許してくれるでしょ。でもこれが中学生だったら、そうはいかないでしょ。例えば学校でひどくいじめられているとしても朝家を出ないわけにはいかないし」。

 

彼は「じゃあ保健室登校とか学校の図書館とか」というのです。

 

私が言いたかったのは、そこまで切羽詰まっているのであれば、(本当に切羽詰まった状態の話ですよ)「そこまでして学校に行く必要はない」と言いたかったのです。

 

大げさなようですが、「死ぬよりはマシ」です。

 

私が言いたかったのは大学生くらいのひとがフラフラしていても世間のひとは許してくれるのだけれども中学生くらいのひとがフラフラしていると下手すると補導されるということです。

 

公園にいても違うし、街をフラフラするのも違うし、国道をただ歩くのも違うじゃないですか。

 

「学校」でせっぱつまっているときに家族になにかいいますか。

 

言えないでしょ。

 

だから「朝イヤだと思いながら家を出ざるを得なくなります」よね。

 

その彼なり彼女が「学校に行く」以外の選択肢はないなということです。

 

その友達は当時24歳だったのですが、発想として「無条件に学校は行くもの」という「発想」しかないことに私が戸惑ったので、うまく伝わらなかったのでしょう。

 

もちろん義務教育はありがたいのです。

 

そうなんですよ。

 

だけども「死者が出ている」という状況が存在し続けていることを私は問題にしているのです。

 

「死者が出続けてている」ということは切羽詰まっているひとたちが存在し続けているということです。

 

このことの重大さを踏まえた上で「そこまでして学校にゆく必要はない」という発言が出ています。

 

もちろん解決策など私にはありません。

 

ただ吉本隆明さんが言っていた「ひきこもれ」というのは、そういう状況認識を踏まえた上での発言だったのかなと今になって思うのです。

 

私は引きこもりを経験していますから、「ひきこもれ」がピンと来ませんでしたし、「いや、引きこもっていてもツライものではあるのですが・・・」と思ってしまうでしょ。

 

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

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でも極端な話ですよ、これ。

 

私は生きているわけですよ。

 

マジメな話、「イジメ学会」や「引きこもり学会」が(存在していて私が知らないのなら本当に申し訳ないのですが)、もし無いのなら、それって問題じゃありませんか。

 

いろいろな学問領域がからむ話ですし。

 

もしないのなら作りましょう。

 

「教育学者」、「心理学者」、「精神科医」、「教師」、「子供がひきこもっている親御さん」、「教育委員会」、「文科省」、「政治家のかた」、「元ひきこもり(私はそうですが)」、ほかにも必要な方々がいますよね。

 

「学会」を作るのは普通ではないでしょうか。

 

「学会」を作りましょう。