天才という言葉に英語で天分があるという意味のGiftedをつけました。
「彼、彼女はあきらかに与えられているよね」ということです。
ある友人が基準になっていることはありませんか。
私でいうと高校時代の同級生でとても聡明なひとがいました。
彼がそんなに勉強しているとも思えないのに、いつも学年トップなのです。
スポーツの世界で友達の誰かでとても優秀なひとがいる場合に、その友達は基準になりますよね。
たとえば私は野球をやっていた友人が、Gifted(天才)に見えました。
スポーツ万能です。
でも聡明な彼は、東京大学に楽に進めたのに地方大に進んでもったいないなあと密かに考えていました。
またスポーツ万能の彼が私にはGifted(天才)にして見えないのに、全国レベルや世界レベルでは特別に秀でているわけじゃないという事実に愕然としたのを覚えています。
なんでもいいのですが、プロスポーツ選手の練習を風景を実際に見て、
「テレビで見てた時はなんとも思わなかったのに、こんなにスゴイひとたちの集団だったんだ」
と驚く場面があったひとは多いと思います。
しかも多くのプロスポーツの場合、日本でトップクラスだとしても世界で通用するひとは一部ですよね。
別に私は耳障りが良い話をしようとしているわけではありません。
あきらかに「天分の差」はあります。
それは明らかにあるのです。
それではなぜ誰もが天才といえば天才などということを書いたのでしょうか。
それは、この段階で書くのがはばかれるほど残酷な事柄ですが、
「好き」なことしか続かないからです。
多くの若い人は「自分に好きなことなどない」と思っているのだろうと想像します。
私もそうでした。
ただおもえば続いていることもありはします。
だから私が若いころに「自分に好きなことなんてないなあ」と思っていたことは誤りだったのです。
朝起きて顔を洗うとか葉を磨くとか、そういうこととは別に続いていることがあるのです。
そのひとの能力の方程式を提示している人たちがいます。
引退しましたが、島田紳助さんがその一人です。
(もって産まれたもの)×(努力)×(時代)
がそのひとの力だと紳助さんが言っていました。
糸井重里さんも途中までは一緒です。
(もって産まれたもの)×(努力)+α
が糸井重里さんの説です。
あきらかにもって産まれたものの差はあります。
明確あります。
思い知らされるほどにあるのです。
万人に共通するものと多くのひとがあげるものがあります。
ひっぱりませんが、「時間」です。
若い友人をからかって、「どうせタラタラテレビ見てるんだよね」といったことがあります。
実は私も若いころにタラタラテレビを見ていました。
でも、同じようにテレビをみていても違いがあります。
あるいは学校にいっていても、働いていても、違うんです。
「このひとは学べていない」と思うのです。
お笑い好きの友人と話をしていた時に「これって欽ちゃん(萩本欽一さん)の影響だよね」と思ったことがあります。
「ドリフでもないし、てんぷくとりおでもないし、たけしさんでもないし、タモリさんでもないし、さんまさんでもないし・・・」と思ったのです。
お笑い好きの友人は映画も好きで、彼の映画の好みをからかっていたのですが。
私は
「君はマニアックだよね」
「もう一回いうわ。君はマニアックだから」
彼は違う世代なのですが、
「二回言いましたね」
と答えました。
私は
「三回目はどうしようかなあ」
といっていました。
そして「これは欽ちゃん(萩本欽一さん)だ」と思ったのです。
ある時に私は「努力」のありかたとして、これが一番いいと考えていました。
それは「努力している自覚のない努力」です。
昔からいう言葉に「好きこそものの上手なれ」という言葉があります。
高校時代のおそろしく聡明な彼も、スポーツ万能の彼も、
もちろん、もって産まれたものは私などとは桁が違いました。
それはそうです。
ただ、それだけではなかったのです。
彼らは「好き」なだけだったから私のように「しなきゃ」とか「頑張る」とかいう必要性がなかったのです。
私などが力んで頑張っているつもりでも、努力の質がまったく違っていたから高校時代にあれほどの差がついていたのでしょう。
彼らはもちろんもって産まれたものが私とはまったく違っていました。
彼らのほうがはるかに上です。
そして努力の量以上に「質」が違っていたのです。
私などが力みかえって「運動」をするとか「勉強」をするとかいう「質」の努力とは彼らの努力の「質」がまったく違っています。
その聡明な同級生が言っていたのです。
「普通に授業を受けて、ちょっと予習と復習をすれば良いんじゃないの」と。
高校だと普通授業が6コマありますよね。
その6コマに対する姿勢が彼と私ではまったく違っていたのです。
私は授業が早く終わらないかなくらいの気持ちです。
でも彼は、彼の中では「普通」でしかなかったのですが、おそろしく集中して、ただの高校の授業を取りくんでいたのです。
この6コマの差をほかのところで挽回することは不可能だったのでしょう。
もちろん彼らのほうがはるかに上です。
上記のお二人のひとがおっしゃるように、掛け算なのでしょう。
ゼロになにをかけてもゼロにしかなりません。
ただ「好きなことなら続く」し、残酷なことに「好きなことしか続かない」のです。
たとえば私は文才がありません。
ゼロだったら今かけていませんが、ない方でした。
中学時代に青刷りの同人誌に参加していて、主催者から怒られました。
「あなたは全然書かない」と。
書いていませんでしたから、当然なのですが。
中学時代には一文字も書けなかったのです。
「一文字も」です。
でもなんだか「書いて」いたのです。
なんだか。
でも、そうしているときにも「自分には好きなものなんかない」としか思っていませんでした。
読書も今から考えるとおかしいくらいに読んでいます。
高校時代は漫画でしたし、漫画は私の中で本に入らないものですから読んでいる自覚はありません。
高校を出てからも「もっとしっかりした本を読まないと」と思うのですが、娯楽になるものばかりしか読んでいませんから「ダメだな」としおもっていないのです。
でも読んでいますよね。
でも自覚はない状況です。
私が言いたいのは、「これって努力なんだよね」と思ってしていることは「努力の質」では劣るのです。
元高校球児と話をしたことがあります。
彼はとても普通の感じでしかありません。
何気なく「甲子園に行ったの?」ときいたら。
「行きましたよ。ベンチじゃなかったけど」
と普通に答えるのです。
普通甲子園に行くくらいの高校生の休みは元旦だけです。
事実彼はそうだったはずです。
彼はケガをして、こういう仕事があるんだと思って、その仕事についています。
彼のなかでは高校時代の練習は「努力」したということにうちに入っていなかったのでしょう。
私がしつこく書いていたとか、高校時代の同級生とか、元高校球児とか。
「自覚のない努力」をしていたということですし、あなたも「自覚のない努力」をしている可能性があるということです。
あくまでも可能性ですが。