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世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

「怒り」がある社会へ

私はこのブログでしょっちゅう怒っています。

 

無意味に「怒り」をぶつけているつもりではないつもりです。

 

これはロバート・ハリスさんが「アウトサイダーの幸福論」

 

 で書いているのですが、一定程度の「怒りの表現」がある社会は健全な社会です。

 

私が子供の頃に学園紛争がありました。

 

彼らの考えや思想を私はまったく問題にしていません。

 

私は「彼らが怒りを表現していたこと」を問題にしているのです。

 

「それは違うと思う」という「怒りの表現」です。

 

多くの方が「怒るな」という趣旨の本を書いています。

 

その通りです。

 

必要のない「怒り」が必要ありません。

 

必要な「怒り」もあります。

 

「怒るべきときに怒る」のは普通です。

 

普通なのです。

 

ただ子供同士であっても、友達同士で喧嘩した後は気まずいものです。

 

仲直りは恥ずかしいし、どちらから声をかけるのかを迷ったりもします。

 

独立派の仏教者の草薙龍瞬さんが「反応しない練習」

 

 のなかでおもしろいといっては失礼ですが、興味深い話を書いています。

 

修行中の僧侶の方がある朝寝坊したそうなのです。

 

本人はマジメですし、その件を気に病んでいたそうです。

 

その時にその方は叱られているのです。

 

「それは終わったことだ」と。

 

アメリカで18年診療してきた精神科医の方の本は「瞑想」を勧めています。

 

最高の休息法・久賀谷亮先生です。

 

世界のエリートがやっている 最高の休息法――「脳科学×瞑想」で集中力が高まる
 

 久賀谷先生の考えも興味深いものです。

 

これはわたしなりのたとえです。

 

海や湖にはいつも波があります。

 

もし、海に波がないとしたら、それはそうとう危険な状態の前触れです。

 

脳もそうです。

 

脳はいつも動いているのです。

 

なにかを考えているということです。

 

では「脳を休ませるためにはどうすればいいのか」を久賀谷先生は考えています。

 

「いま」、「ここ」以外のことは考えないようにするのです。

 

とはいえ考えるのが普通です。

 

それが私がいう「波はあるのが普通だ」ということです。

 

ただ必要以上に大きな波を起こす必要はありません。

 

大きな波が起きたとしても、だんだんにいつもの状態にかえってゆきます。

 

瞑想をしていたとしてもいろいろなことが浮かんできます。

 

それはそうです。

 

ただそれに引きずられる必要はないのです。

 

「こんなことが浮かんだ」で終えるように訓練をするのが瞑想なんだと私は考えています。

 

私自身もずいぶん瞑想をしました。

 

「こんなことが浮かんだ」、

 

「あれこんなことを思っている」、

 

これは波があるということです。

 

普通のことです。

 

ただ訓練すると「浮かんだ」内容や「思った」内容にひきづられなくなるのです。

 

「浮かんだ」な、「思った」なで終わります。

 

それが「怒り」であっても同様なのです。

 

ある種の「怒り」は消えないものです。

 

そこは私には解説できません。

 

そういう「怒り」もあるとだけ書いておきます。

 

そういう「怒り」を、その時に解消するのは、そうとう難しいのでしょう。

 

それは、私はそうでしたが、ずっと後になって、その「怒り」の原因を思い出して(そのこと自体苦痛なのですが)ちゃんと怒ってあげて解消しました。

 

そういう行為をおそらく過去直面療法と呼びます。

 

無意味に自分を苦しめているのはありません。

 

その時は怒れないような理由があって、それを自分が「怒ってあげない」と、その「怒り」は現在進行形のカタチで自分の中に存在するからです。

 

 

辺境ラジオ

辺境ラジオ

 

 

ポッドキャストでもユーチューブでも聴くことが出来るのですが、名越康文先生の「トラウマ」と内田樹先生のカミュの「反抗」の話は非常に重要です。


カミュの『反抗』(La Révolte)vs『怒り』(トラウマ) 西靖 内田樹 名越康文

 

「反抗」はフランス語を日本語に翻訳した言葉です。

 

非常に難しいのですが、「吐き気がする」という日本語に近いのかもしれません。

 

基本的にはフィクションの中の言葉ですが、あまりにひどい現実に直面した人物が「吐き気がする」と罵倒するようなニュアンスで使っているのを目にしたことがないでしょうか。

 

昔はやった二時間ドラマで一回だけ見たことがあるシリーズがあります。

 

市原悦子さん主演の「家政婦はみた」シリーズなのですが、私はその時に「このドラマシリーズはおそらくほぼこれと同じ終わり方をしているのだろう」と思って不思議だなと感じました。

 

市原悦子さんがそうとう良い暮らしをしている家の実情を次々に見てしまいます。

 

不思議なドラマシリーズだとも思いましたし、この結末は不思議だなと当時感じていまいした。

 

市原さんが演じる家政婦さんが最後にこういったのです。

 

「もうたくさん」。

 

こういって、その家を去るだけなのです。

 

このセリフは

 

「あんたたちは立派そうにしているけれども本当に醜かったわ。私がいくら家政婦でも、見ること、聴くことに耐えられないほどのことばっかりだわ。私はもうあなたたちのかかわりを持つは人間的に耐えられません。本当にイヤなものを見てしまったし、聞いてしまったわ。そういうことを普通に見せてるような人たちは本当に最低のひとだと私は思うの。だから私にはこの家の家政婦を到底続けられないの。だからやめる。ただ一言だけいわせて。いうとしたら、もうたくさん だわ」

 

という意味です。

 

当時は家政婦さんが「ただイヤな思いをたくさんして去るだけのドラマのどこがいいんだろう」と思って不思議だったのですが。

 

年を取って「腐っているものは腐り果てて滅んでしまえ」くらいのことを普通に考えるようになると、このドラマの結末もわかる気がするのです。

 

若いころは「この現実をよくしたい」とも思っていたのでしょうか。

 

活動的な方ではなかったのですが。

 

ただ、この祈りが示唆するものはあると思うのです。

 

これはアディクション(依存)を抱えているひとは結構知っているキリスト教の祈りで人気のアドラーの本にも書かれていました。

 

その祈りとは「ニーバの祈り」です。本を紹介しすぎたので、もうしませんが、岸見一郎さんと古賀史健さんの「幸せになる勇気」のなかから引用します。

 

「願わくばわたしに変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常にみわっける知恵をさずけたまえ」

 

と祈るのです。

 

三つのものが常に自分とともにあるように祈ります。

一、変えられないものを受け入れる落ち着き

二、変えることのできる物事を変える勇気

三、その違いを常にみわける知恵

 

残念ながら「変えられない物事」もあります。

 

たとえば自分の姿は基本変えられませんよね。

 

でも変えられもします。

 

そうですよね。

 

その線引きは難しくないですか。

 

自分の姿だって、男だったら筋トレやダイエット、女性もダイエットやメイクアップ、場合によっては整形手術によって変えられます。

 

たとえば別に整形手術は違法行為でも、特別に倫理上の問題があるとも私は考えていません。

 

ただもう年だということもあるのでしょうが、私には興味がないし、若い時に整形をしたという話は実際聞きますし、それは良いような気もします。

 

ただある年齢のひとが整形手術を「受けたい」と思うことには正直違和感があります。

 

「するな」ということではまったくありません。

 

理由はわからないのですが、私自身も若いころに見た目がとても気になったので、若いころに、そういうことがあることはわかる気がするのです。

 

ただある年齢以上になって、もちろんオシャレや見出しなしは大事ですし、年をとればとるほど、「第一印象」を気にするようになるよう気がします。

 

お金を持っている女性がシワを取るとかそういうことには、そういうこともあるのかと思うのですが、間ですよ。

 

20代中盤からある年齢までの、まあたいてい女性なのですが、がそういうことをしたとは個人的には聞いたことがありませんし、私にはよくわからない事柄です。

 

今書いてきたことが三つの祈りで「常にともにありたい」と願う事柄を表しています。

一、変えられないものを受け入れる落ち着き

二、変えられるものを変えてゆく勇気

三、その違いを見分ける賢さ

 

今度は私が暗唱しているままに書きました。

 

本当にわからないと思いませんか、今の整形手術の事例でも。

 

一、変えられないものを受け入れる落ち着き

 

がその場合にとって必要なのか。

 

それともそれは思い切って、お金を使って整形手術を受けて

 

二、変えられるものを変えてゆく勇気

 

がその場合に必要なのか。

 

わからないでしょ。

 

私にもわからないんです。

 

だから

 

三、その違いを見分ける賢さ

 

が必要ですよね。

 

私が「腐っているものは腐り果てて滅びてしまえ」と思うのはなにも現実を否定してり、現実から逃げているわけではないのです。

 

その私がいう「腐っているもの」が私にとって「変えられないもの」だとしか思えないのです。

 

だから、それは「受け入れよう」ということです。

 

「ニーバの祈り」が言っていることは特別なことではないのです。

 

この三つはすべて必要なものなのです。

 

いままで私が書いてきたことが、そんなに混乱し、矛盾に満ちていると私は考えていません。

 

一定程度の「怒りの表現」がある社会は健全です。