あるひとの、例えば本を読んだり、テレビで発言を聞いて、
「いいな」
と思うことは普通にあります。
それから、その方の専門分野がなんであれ惚れ込んでしまうこともあります。
本の著者であるのならば何十回もそのひとの本を読んでみたりします。
分野は何でもいいです。
ただ、こういう時代ですから、emailを送ることは可能です。
そこが難しいところです。
あるネット起業家のかたが「こうしている」という話を聞いて、「それは正解だな」と思ったことがあるのです。
その方は「このメールは悪意があるよね」と思ったり、「イヤなメールだ」と思った場合にあることをしているというのです。
それはそのメールをわざわざ紙に印刷して、それを燃やして、踏んずけるという作業をするというのです。
今の時代には、こういう原始的なことがとても大事です。
私も経験があるのですが、これイヤだなと思うメールを送り付けられて不快だと思うのだけれども、どう対応していいものかわからなくなったこともありますし。
ひとのメールを送って、怒らせたこともあるのです。
余計なことなのですが、それはある種の「のろい」なのだと私は考えるのです。
「のろい」の専門家は陰陽師です。
映画にもなりました。
私はある状況で、ちょっと将来が見えない方にぜひ陰陽師になってほしいと思っています。
陰陽師は下級神官のようなポジションのようなのですが。
たとえば占い師の方が普通に山のようにいますよね。
みなさんはご存じないかもしれませんが、ウチはちょっといろいろあったので、霊能者とかそういうひとも日本には普通にいて、アドバイスをもらったししています。
昔精神を病んで、そういうひとに観てもらったことがあります。
巫女さんがいました。隣に審神者(さにわ)がいます。
本当かどうかは別にして巫女さんはトランス状態に入ります。
本人もまわりの、巫女さんのメッセージの解読など普通はできないものです。
ですから審神者(さにわ)が必要になります。
それも本当かどうかは別です。
審神者(さにわ)が
「あっ、このひと憑いていません」
というのです。
巫女さんのメッセージを解読して、ほかのひとに伝えるのが審神者(さにわ)の役割なのです。
そういわれたのだから私には霊だかなんだかしれませんが、そういうのは憑いていなかったのでしょう。
わかりませんが。
ディーバという言葉が出始めたころに、ディーバというのは歌の女神のことなのですが、松任谷由実さんはメディアなんだろうなと思っていました。
メディアの語源はメディウムで、巫女さんです。
あのプロジェクトはなんかおかしくて、基本松任谷正隆さんがプロデュースとアレンジをしています。
「恋人はサンタクロース」のアレンジは違うようですが。
あのお二人はもちろん夫婦で、ミュージシャンと封建的なプロデューサということでもあるのですが、
「巫女さんと審神者(さにわ)」ですよね。
そういうひとたちでしょ。
私が勝手にこのアレンジは強引だなとか思うこともあるのですが、でもそれは審神者(さにわ)として、巫女さんはこういっていますという解釈なのでしょう。
明確に覚えていますが、エスパーという歌があって、「この曲にこのリズムパターンを入れるのが強引だな」とか思うこともあるくらいです。
みゆきさんが長々私にはわからないでいました。
「このひとはなにをしているのだろう」
と思っていたのです。
好きな歌はたくさんあります。
でも基本的なところが好き嫌い以前にわからないのです。
「このひとはなにをしているだろう」とか「このひとはなにをやりたいんだろう」とか思うんです。
それでずっとわからないままで、でも好きな歌がいくらでもあるという奇妙な状況が続くのです。
みゆきさんが「夜会」という音楽劇を始めたときに
「あっ、このひとは演劇をずっとやってたんだ。オレ音楽だと思ってるから意味が分からなかったんだ」
と思いました。
「演劇」っていうと、「軽い」くらいと思うひともいるかもしれません。
しかし「演ずる」ということは誰にとっても、どんな年齢でも絶対必要なことです。
たとえばあなたが明確に怒っているとします。
そうであったとしても、怒っている自分はちょっと恥ずかしいかなとか、いい年して怒るのも違うかなという気持ちはどこかにあるはずです。
「怒りが100%の状況」はないです。
だけれども「態度」を決定する必要はあります。
それは「嘘」ではありません。
この例でいえば事実「怒っている」わけですから。
その時に「怒っている」という表情やふるまいをすることは本来普通です。
繰り返しになりますが、その状況であなたは「怒りが100%ではない」のですよ。
「喜怒哀楽」全部、あるいは微妙な感情であっても同じです。
例えば、学校の先生から怒られているときに、種々の感情があなたの中に存在します。
その感情は本当にいろいろでひとつではありえません。
しかしそれは「嘘」ではないのですが、「申し訳ない」という気持ちも少しはあると思います。
あるいは「反省します」という気持ちもあるのが普通です。
繰り返しになりますが、それだけではないです。
「先生ってバカだなあ」とか「ここで怒るのは違うと思います」とか「理不尽でしかないよね」とか「先生はわかってないし」とか。
それは普通です。
ただ、あなたは、たとえばそういう状況で、当然ある表情を浮かべます。
あるいはあるふるまいをします。
その表情やふるまいを決定する必要があるのです。
繰り返しになりますが、「嘘」ではないです。
その表情は「申し訳ないです」という表情かもしれないし、「下を向いてうなだれる」というふるまいかもしれません。
嘘じゃないでしょ。
ほかにいろいろな複雑な気持ちがあるとしても、その気持ちもあるわけだから。
「決定する」というのはこういうことです。
そういうことをしないとどうなるでしょうか。
結果いつもいつも一緒です。
だって悲しみだけとか喜びだけとか、そういうことは存在しないからです。
結果いつでも無表情にしかなりえないでしょ。
嘘じゃないですよ、でもある表情やふるまいを「決定しない」と結果いつも「無表情」にしかなりえないでしょ。
それは「正直」ではないのかもしれません。
「100%喜んでいるわけではないので喜んだ表情やふるまいをする。しかし今は明らかに喜びの感情の比重が多い」ような状況なのですから。
しかし「喜んでいる」のは事実でしょ。
それがすべてではないにしても。
そういうことが私のいう「演ずる」の重要性です。
嘘じゃないです。でも正直じゃないのかもしれません。
みゆきさんはそういうひとみたいですよ。
陰陽師のよって立つ根拠は正直言って、どうでもいいのです。
ポイントはそこにはないからです。
言論空間に「のろい」が満ちていることが問題でポイントだからです。
たとえば「呪詛返し」なるものが存在します。
「のろった本人にのろいがかえっていくようにする」のが「呪詛返し」です。
バカにするわけではないのですが、「ひとに恨みがましい気持ちをぶつけるようなひと」が良い目はあわないような気が私にはします。
だから「呪詛返し」をしなくても、「ひとを恨むようなひと」、それはもちろん恨まざるをえないようなことがあるから恨みがましく思うのですが。
でもそういうひとがうまく普通いかないでしょ。
ただ現代は「そういう気持ちがカタチになってしまって」いる社会なのです。
だからそれをぶつけられたひとが「これはネット上の情報だ」という風にとらえると苦しのです。
だからネット企業家は、それをカタチにして燃やして踏んずけるという作業していて、これは極めて合理的なのです。
ただそれはご本人が十分大人でもあるし、だからできることです。
教育評論家の尾木直樹さんがラジオでラインイジメが深刻になっているという話をしていました。
ラインは私にも便利です。
一番便利なのは「既読」がつくところです。
私はオヤジなので、「既読」がつけばOKです。
「読んだんだ」ということで納得します。
ただ若い方は、まず「既読にしろ」と次に「なんか返せ」と思うはずです。
たとえばラインイジメで「死ね」というメッセージを送るじゃないですか。
それに対してまず「既読にしろ」と次に「なんか返せ」と十人以上から24時間やられたら誰だって苦しいです。
そこの陰陽師が登場するのです。
極端な話嘘でもいいんです。
「これから呪詛返しをします」といって、ある儀式を行うんですよ。
その儀式のスタイルは非常に重要だと私は考えています。
ある種の演劇性が必要です。ラインイジメってあっているひとが参加するカタチもありえます。
ラインイジメにあっているひとが腹のそこから「いまうらみの念がうらみをおくった連中に帰っていった」納得する必要があるのです。
場合によっては呪詛返しの最中であっても、既読にする、なんか返すということをしなければならないかもしれません。
下級神官というもの自体そういうものらしいです。
呪詛返しをするだけではなくて、
「いいかい、これから『死ね』というメッセージが来たら、『すいません。死にます。許してください』ってだけ返すんだよ。『死にます』って君は書くんだけれども絶対死んじゃダメだからね」
と、たとえばいうのです。
私が言いたいのが、このアドバイスには「具体性」があるということです。
朝の占いは下級神官の仕事なのでしょう。
たとえば「今日のラッキーアイテムはこれです」というアドバイスは非常に具体的なのです。
「すいません。死にます。許してください」とだけ書けばよいといわれると、ラインイジメにあっているひとのなかで、もうまず既読にする、そして何か返さないといけないというプレッシャーが軽減します。
「死ね」ってまた送ってきた。でも既読にして、陰陽師さんが「すいません。死にます。許してください」ってだけ返しなさいっていってたから、そうしよう」と発想が切り替わるんです。「だいたい呪詛返しもしてもらたしなあ」とか。
そういう発想になってしまえば、切り抜けれる局面です。
私がいっていることは問題の本質的な解決策ではまったくありません。
いってみれば小手先の問題です。
ただ、その局面で問題を本質をあえてとらえず、あえて小手先の問題としてとらえ、それは本質的な問題でないがゆえに、小手先の問題だという認識を持つことが本人にとって楽な場面が多々あるということを指摘しているのです。
そして、ギリギリの局面において、小手先のことだけを考えることの重要性を言っています。
そんな場面で本質的なことを考えてはむしろいけないのです。
生き延びる必要があるからです。
そこまでせっぱつまっていなくても、仕事があと10時間以上あっていつ終わるかわからないという場合にほとんどのひとは、「いつ仕事が終わるかな」とは考えていないはずです。
それは「本質的なところ」です。
それを考えるとくるしいのです。
小手先のことを考えていますよね。
目先の仕事のことだけを考えるようにしているはずです。
だから「本質的なことを考えるべきではない局面」が「存在」するのです。
ですから「そのひとの思考の流れ」は異常なまでに需要なのです。
当時まだパワハラという言葉はなかったのですが、私がパワハラを受けていた時に、もう私はオヤジだったので、
「あれ、このひとのこの発言はたぶん法律上問題があるな。これを録音して裁判に持ち込むと、これ勝つな」と思って乗り切ったことがあります。
実際にそういうことはしなかったのですが、私がやっていたことを解読してほしいのです。
ガミガミいわれて、「もうしわけない」というふるまいをしながら、別にことを考えていたのです。
仕事があと10時間あるという場合においても、「日本の労働環境にあり方は」と考えても楽になります。
演劇でしょ。
正直だったら、そういう状況は危険なのです。
T君という若い友人に僕が
「君は僕のことをバカにしてるでしょ」といった時に、
T君は
「イヤ、リスペクトしてます」といったのです。
私は
「リスペクトっていう単語をつかっている時点でリスペクトしてないよ」
と答えました。
彼の思考のなかで
「このひとは尊敬するにたるという思考に流れはそこに存在しない。ただ笑いを取るとか、この場面を切り返すという発想で『リスペクト』という単語が浮かんだ」
ということがわかったからです。
まあお互いいきのびましょう。