世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

何故今年2016年はオタク終了の年なのか 無権力闘争の終わり

ともに私は観ていないのですが、今年は映画「君の名は」と「シン・ゴジラ」がヒットした年です。

 

「君の名は」で私もオタクは終わったと感じもしたし、考えてもいます。

 

「君の名は」はいい作品のようなのですが、問題はそれがアニメであったという点です。

 

たとえば「君の名は」をオシャレな女性が観てもなんの不思議はないはずです。

 

そのことがオタクを終わらせれているのです。

 

オタクはオシャレであるとか、意味があるとか、価値があるとかいう存在からどこか逃避している存在であるからです。

 

世代論には基本的に意味はありません。

 

というより、ある時期の日本では、その時々の若者にキャッチコピーのようなもんをつける習慣があったことが今から考えると奇妙です。

 

すくなくとも戦後(敗戦後)はずっと続いています。

 

私の素養のなかで重要な存在の小林信彦さんのコラムによれば、もう他界された喜劇の大御所・森繁久彌さんが売れっ子になるころに、それ以前の喜劇のひとびとから

 

「あんなアプレが出てきたら、もうオレたちはダメだ」という声があったという話です。

 

アプレとはフランス語でアプレゲールのなのですが、ここでは戦後派という意味です。

 

そのあとはずっとそういうキャッチコピーのようなもんをつけるのが普通でした。

 

団塊の世代」のようにです。

 

日本が戦争にぼろ負けして、「負け」を認めたのが1945年です。

 

「負け」を認めたという表現はおかしいと思われるのですが。

 

戦争行為はどちらかが「負け」を認めないと終わらないものなのです。

 

日本は負けていたのですが、「負け」をなかなか認められなかったのです。

 

実際「終戦記念日」という名称がおかしいし、「国際連合」という日本語訳もおかしいのですが。

 

これは苦肉の策です。

 

「日本が戦争に(おもに)アメリカに負けた」と思ってしまうと、

 

「それではアメリカに復讐しよう」と思ってしまうからです。

 

国際連合はunited nationsなのですが、これは戦争中は「連合国」と日本語に翻訳していました。

 

日本は「枢軸国」側でしたから、日本人にとって「連合国」は敵でしかありえないから、苦肉の日本語訳です。

 

「連合国」のままだと、

 

「俺たちはあいつらに痛い目にあわされたのだから、そのうち・・・」と思ってしまうからです。

 

私はてっきり旧日本軍は弱かったとばかり思っていたのですが、

 

違っていたらしいのです。

 

おそらく戦前、戦中、戦後までいた政治家の方の回顧録によると、

 

「旧日本軍は実は強く、あいつらがまとまるとGHQは問題ではなかった」

 

と書いていました。

 

ですから天皇陛下の存在がどうしても必要だったというのです。

 

つまり日本が内乱状態に陥るギリギリの線を踏みとどまったのだということなのです。

 

歴史にifはないのですが、内乱状態と東西冷戦が重なると日本は分断国家になっていたのですから。

 

東は旧ソ連側の国、西はアメリカ側の国の分断国家になっていたからです。

 

オタクごときの話に国際状況を入れるのはおかしいのですが。

 

すくなくとも日本にははずっと「流行」があったのです。

 

それは「今年の夏はカリプソ」とかいうことです。

 

思想でも、映画でも、演劇でも、そうです。

 

明治以降の日本は海外の文物を輸入するカタチで流行を作っていました。

 

ですから奇妙なことあります。

 

たとえばロックをやっているひとが、日本の先輩ロッカーの評価が出来ないようなことが普通にあったし、あるのです。

 

それは先輩ロッカーは、たとえばビートルズの影響を受けています。

 

しかし彼はクラフトワークが好きなので、日本の先輩ミュージシャンよりも、やはりクラフトワークが好きな海外のミュージシャンに親近感を感じるし、実際しらないこともありうるからです。

 

場合によっては「否定する対象」なのかもしれません。

 

おそらく大なり小なり、そういうことは世界中にあって、「プレスリーが好きなグループ」や「ビートルズが好きなグループ」や「パンクだというひと」である種の国を超えたグループがあるはずです。

 

今の若いひとが、「いまはみんなで歌える歌がない」というのはある種当然のことでもあります。

 

同世代だから、同じ歌を知っているとは言えないからです。

 

「流行」は基本、海外から来ます。

 

日本はそれを受け入れるカタチで「流行が発生していた」と了解してください。

 

その状況で「日本発の流行なるものは存在しえない」とも了解してください。

 

この状況を説明すると若い人は

 

「じゃあ日本人は何をしていたんですか」

 

と当然疑問に思うはずです。

 

説明が難しいのですが、その国、その地域の違いはもちろんあります。

 

しかし日本はその違い以上に貧しくもあり、国際的な文化、文明の力で負けている状況なのです。

 

ですから海外から「輸入をする必要」があったのです。

 

「輸入」と「輸入したものの解釈や、それをうまく日本になじませるだけ」でも異常にエネルギーが必要な時期だったのです。

 

今はマクドナルドの存在に違和感を感じるひとはいないはずです。

 

しかしマクドナルドがまったくなくあなたがハンバーガーをまったく知らない状況を想定してみてください。

 

その状況ではハンバーガーの食べかたにさえ苦労しませんか。

 

もちろん普通に食べるだけのことです。

 

しかしハンバーガーをまったく知らないと想定してみてください。

 

あなたはハンバーガーをまったく知らない状態です。

 

トレーにハンバーガーとコーラとフライドポテトが乗っている状況です。

 

もちろんフライドポテトがなんなのかもあなたは知らないのです。

 

一言でいえば変なわけです。

 

まだ知らないのですから。

 

それを普通に食べるのにとまどいが生じます。

 

そういうとまどいが田舎くさいとどこか感じている状況です。

 

あきらかになにもかもに戸惑うのだが、戸惑うことがどこかみっともないと感じているということです。

 

それが生活・文化・政治・経済のすべての領域で行われている状況だったのです。

 

ですから「輸入」と「輸入したものの解釈や、それをうまく日本になじませるだけ」とは書きましたが、それが異常にエネルギーを必要とする作業だったと了解していただけたでしょうか。

 

ある世代以上のひとは「マクドナルドでハンバーガーを注文することに緊張した経験」が実はあります。

 

「流行はどうしても必要なもの」だったのです。

 

日本中でマクドナルドであるとか、フライドチキンであるとか、(ありえないと思われるでしょうが)スーパーマーケットであるとかに一々なじむ必要があったのです。

 

取り入れる必要性もありますし、なじめないものになじんでいく時期でした。

 

ですから、その作業にはおそろしくエネルギーが必要だったのです。

 

ある時期に「流行」は終わりました。

 

それは日本の社会・文化・経済・政治が国際社会に「なじんだ」という説明がわかりやすいかもしれません。

 

ですからその前の状況で「流行に日本発はありない」のです。

 

今のほうが普通です。

 

たとえばスターバックスコーヒーが入ってきても、戸惑わない状況になったということじたいが日本の状況にあきらかに変化が起きたととらえるとわかりやすいと思います。

 

キャッチアップの時期がおかしかったともいえますし。

 

私は日本がおかしくなったのは1980年代だと考えています。日本も日本人もキャッチアップしない時代に入ったからです。

 

ポップミュージックも他の文化領域も経済も政治もなにもかもおかしくなっています。

 

「非キャッチアップ期」つまり「日本や日本人のモデルが世界中のどこにも存在しない時期」に入ったからです。

 

私は日本史は詳しくないのですが日本史上もし「非キャッチアップ期」があったとするならばそれは江戸時代と平安時代だけのはずです。

 

だから江戸と平安は今の日本人に重要なのです。

 

外国でいうと文化を発信し始めてたころのフランスやアメリカの参考になるはずです。

 

当然フランスもアメリカも輸入が重要だった時期があります。

 

文化の推移で考えるとヨーロッパの文化の中心は長く南の方だったはずです。カソリックの総本山もバチカンはイタリアの中ですしギリシャは地中海沿岸です。

 

フランスもイギリスもアメリカもある時代は辺境です。

 

中心も辺境も移動します。古代文明(と言い方もよくわかりませんが)はエジプトメソポタミア黄河インダスの4つです。

 

日本の場合は仏教や儒教や文字(漢字)や単語を輸入していますからインダス黄河文明のが中心だったはずです。

 

でも明治に入ると当時の世界状況の中で輸入先を変えています。ざっくりいうと欧米から輸入しています。

 

単語で考えるとよくわかります。

 

漢字には音読みと訓読みがあります。ざっくりいうと音読みは昔の中国から輸入した言葉で訓読みは土着の言葉です。

 

「みず」が土着の言葉で「すい」が昔の中国から輸入した言葉で「ウォータ」と「アクア」が英語圏から輸入した言葉です。

 

ただ英語の中では「ウォータ」は土着の言葉でアクアは輸入した言葉です。

 

フランス語と英語が同一語源の場合はその単語はローマン語系の単語だという意味で英語の中では輸入した言葉だということができます。

 

イギリスからというよりアメリカからフランスの輸入された言葉もあるはずです。CDはフランスではそのままCDでセデだということが中心の移動を意味しているはずです。

 

余計な話ですが今の世界では国際標準後は英語です。日本人にとっては英語は学習が難しい言語なのです。(その説明は省略しますが)

 

そして日本語が国際標準後になる可能性はほぼありません。

 

でも日本人にとって中国標準語やスペイン語はとても学習しやすい言語です。

 

多くのひとが使っている言語で(聴いた印象なのですが)ロシア語も日本人が学習しやい気がします。

 

ヒンディ語アラビア語は不明です。

 

マレー・インドネシア語ベンガル語もほぼ聞いたないのでやはり不明なのですが。

 

日本人の場合は国際標準語として中国標準語やスペイン語やロシア語を押すことには大きな価値があります。

 

 

 

また余計な話ですが私は20年を置いてキラキラが移動していくのだと考えています。

 

1920年代のフランス、1950年代のアメリカ、1980年代の日本とういう風に。

 

2010年代はたぶん中国がキラキラ期だと思うのです。

 

この20年を置いてという周期が続くとすると2040年代にどこかの国か地域がキラキラ期を迎えるはずです。

 

韓国かインドネシアだと思うのですが私にはわかりません。

 

検索して欲しいのですが1930年代のフランスも1960年代のアメリカも大変だったのです1990年代(あるいはその以降今に至るまでの日本)が大変なのは当然です。

 

でも当然すべてが悪いわけでもないのです。

 

日本のポップミュージックの世界では1990年代に大きな3つのブームが起きています。

 

小室サウンド、ビジュアル系、渋谷系です。(ビジュアル系、渋谷系呼ばわりされるのがイヤなミュージシャンたちは山のようにいるのでしょうが)

 

この3つのブームは日本初です。

 

そして小室サウンドとビジュアル系を日本のポップミュージックジャーナリズムは評価できなかったのです。

 

ポップミュージックの知識がある人たちがポップミュージックジャナリトでそういう人々はアメリカとイギリスのポップミュージックに関する知識があるのでアメリカやイギリスのポップミュージックの流れの中では位置づけが難しい小室サウンドとビジュアル系は評価できないのです。

 

違う言い方をすると小室サウンドもビジュアル系もドメスティク(土着的)なのです。

 

ドメスティック(土着的)なものへの向き合い方は日本人じゃなくても難しいものです。

 

映画の世界でアメリカでは今年これがはやり、日本ではこれがはやり、韓国ではこれがはやるとういこと時代が、もちろんそれは普通です、しかし存在しえない状況が続いたのです。

 

ビートルズに世界中の若者が熱狂する(実際はビートルズエイジといってもビートルズが好きなひとはごく一部だったと渋谷陽一さんが書いていますが)という状況は、今とはまったく違いますよね。

 

流行が終わったとか世代ごとにキャッチコピーをつける意味が変わったということはリンクしているのです。

 

やっとオタクなのですが、オタクはどこか現実逃避でした。

 

意味や価値を否定すると、それは「反」になるのです。

 

「反」でいいではないかとも思われるでしょうが。

 

これは橋本治さんの話を引用です。

 

江戸時代の演劇の中心は歌舞伎です。

 

今の日本人には歌舞伎を観て、内容をすぐに理解する力は普通ないのですが(これは私見です)。

 

歌舞伎とハリウッド映画をつなぐためには、いったん歌舞伎を否定する必要があります。

 

近代演劇は例えば「新劇」ですし、「新派」ですし、「新」がつきます。

 

歌舞伎はこの場合でいえば「旧劇」です。

 

その状況では歌舞伎と新劇しかないと考えてください。

 

ほかのチョイスがないのです。

 

あたらしくつくるしかないですし、次は「新劇」を否定するカタチでしか、そして海外のなにかをとりいえないと新しいなに科を作ることはほぼ不可能なのです。

 

当然「新劇」も否定する動きがでます。

 

日本の近代演劇は否定(つまり「反の歴史」)なのです。

 

否定して出てきたなにをまた否定するでしか先に進めないのです。

 

新劇を否定してアンダーグラウンド演劇であるとかアンダーグラウンド演劇を否定して小劇場だとか。

 

あれは1980年代だったと思うのですがある演劇人がちょっと先輩の演劇人にたいして

 

「〇〇さんは終わった」と発言していました。

 

その時に私は「〇〇は終わったという時代が終わった」と思っています。

 

世代論が変わったというのは「既成の存在を否定することに意味がなくなった」からなのです。 

 

実際演劇の世界で歌舞伎とシェークスピアと漫画「ワンピース」の芝居をやる役者や劇団がいても(今は)普通です。

 

だけれども「既成の存在を否定することに意味があった時代」もあったのです。

 

そういう時代であればシェークスピアは否定の対象になってしまうのです。

 

「既成の存在を否定することに意味があった時代」とは昨日が明日とは違う時代です。

 

昨日が明日と違う時代では「昨日の価値観」が「明日の価値感」とずれていくのです。

 

ですからそういう時代では「昨日の価値観」を否定し続けることがどうしても必要です。

 

だけれども「昨日と明日がそんなに変わらない時代」に突入したので「既成の存在を否定することに意味がなくなった」のです。

 

そして「昨日と明日が違う時代」と「昨日と明日がそんなに違わない時代」の端境期に生まれたのがオタクだったのです。

 

私には「反はもはや違う」としかわかっていませんでした。それだけしかわかっていなかったのです。

 

アニメとかアイドルとか(昔は力がなかったので)パソコンとかには、意味や価値が薄いのです。

 

これがたとえば「野球」なら違うのです。

 

価値や意味があるからです。

 

オタク現象は実は価値や意味からの逃避という役割を果たしていたということです。

 

そして今年、本来かっこたるものだった価値や意味が本当になくなった、そして、意味がなかったはずのものが、あるいは価値などカケラもなかったはずのものに、意味や価値が発生したからオタク終了です。

 

ある時期に私はフラットな地平が開けたと感じました。

 

安部首相と、エヴェンゲリオンと、野球が同一平面上いるような世界です。

 

もともといます。

 

しかし、長くそうではなかったのです。

 

本来フラット(同一平面上)で起きている現象です。

 

ですから、同じ感覚で政治とアニメと野球を語ることは本来あってもしかるべきだったのですが、そういうわけにはいなかったのです。

 

そういう状況が発生したということは、非常に支配的ななにかが「ある」という状況ではもはやないということになり、価値や意味に偏りがなくなるのです。

 

安部さんがオリンピックの閉会式でスーパーマリオに扮したそうです(私は見ていませんが)

 

その話を知って私は「何故反ではなく無である必要があったのかががなんとなく分かったようです」

 

それは日本の首相が、スーパーマリオに扮するなど、許されない時代状況が終わったという意味で重大な意味があったのです。

 

変な言い方をすれば、それは意味や価値も「民主化」です。

 

大衆化ともいえます。

 

情報化ともいえるのかもしれません。

 

意味や価値にかたよりがある状況が終わったのが今年です。

 

別に最初から同一平明上の出来事だったのですが。

 

認識や了解や価値や意味の上では、そうではなかったある時代から、ある時代へと移り変わる年だったという意味とおいて、オタク終了は非常に重要な意味をもたざるを得ないのです。

 

2016年に無事オタクは終了しました。

 

そのことに私はやっと気がついて自分がやってきたことは無権力闘争でもう無権力闘争の必要性がなくなって無権力闘争が終わったんだと気がついたのです。