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世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

たまには道徳

 

1. 思い

どうやら君は「ある」らしい。

これは「存在する」らしいということです。

デカルトが「我思うゆえに我あり」と言いました。

自分が考えるから自分という存在はどうも存在するらしいということです。

このことには歴史的背景がありのですが、そのことは省略します。

この言葉を池田晶子さんが一般的な解釈とは違う解釈をしています。

池田さんは「私はないのかもしれないけれども、『思い』はあるかもしれない」と言っているのです。

この指摘は君の悩みを考える上では重要だと僕は考えます。

君の存在はとりあえず放っておこう。

君の「思い」を問題にするということです。

「思い」は複雑怪奇なのが普通です。

「思い」はそんなにあっさりしたものではないということです。

色に例えると「赤」とか「白」とか「黒」とか、そういうシンプルなものではないということです。

もっと複雑なのです。

これを一色にしようと思っても、それは無理です。

世の中が複雑なように君の「思い」も複雑なのです。

2. 社会の中で生きる(上)

君は一人では生きられない。

もちろん一人で生きているつもりのひともいるのだろうけれども、人間は「社会的生物」なのでひととの何らかの関わりを持ちながらでしか生きていけない。

もちろん。自分でクワを作って、他の農業用具も作って、自給自足の生活も送ることは出来ると思う。

だけれども、それは実際的ではないし、そういう暮らしに憧れるひともいるだろうけれども、僕はそれを「人間的な暮らし」だとは思わない。

そのひとがヒトリで暮らす分には大して問題はないだろう。

でもその土地はそもそもどうやって手に入れれば良いのかな。

買うのが普通だと思うけれども、そのためにはお金が必要だよね。

それにそのひとは誰とも付き合わないで暮らすのか。

それが不可能だとは考えないけれども、死ぬまで誰とも会わないで暮らすのか。

そのひとは寂しくないのかな。

そのひとはどういう家で育って、どういう友達がいたんだろう。

そういう人達を捨てて、そういう暮らしに入っていったんだと思う。

「出家」っていうよね。

家を出るのが出家なんだけれども、出家には宗教的な意味があって、師匠につくとは修行するとかいう意味がある。

事実かどうかは別にして「一人出家すれば一族九族来世は天界に産まれ変わる」という考え方もあるようだ。

「出家」には僕は意味があると思う。

でもそうではなく、ただ家を捨てる時点でそのひとは「人づきあいはしたくない」というカタチで僕は逃げたひとだと思う。

批判するつもりはないけれども。

「人づきあいはしたくない」っていうことは「ひと」が嫌いなのかな?

でも、そのひとも「ひと」でしょ。

そのひとは自分が嫌いなんじゃないのかな。

僕は君には自分を「好き」でいて欲しいな。


3. 社会の中で生きる(下)

それじゃあ、社会の中で生きるということを考えてみようか。

この件に関しては漱石の小説の冒頭が僕は好きだな。

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みづらい」

漱石はこう書いているよね。

ここまで知っているひとは多いと思う。

これには当然続きがあって、それは「この世」じゃない世界ってどういう世界なだろうって漱石が考えて、それはとてもイヤな世界だ、そんな世界よりもこの世が良いっていう風に続くんだよ。

僕もそう思うな。

この世はイヤなものだけれども、この世じゃない世界はもっとイヤなもんだと僕は考えるんだよ。

僕は、この世は楽しいとか、とても良いものだとは思わない。

でもやっぱりこの世が良いと僕は考える。

最低でも、最悪でもないしね。

もちろんイヤだし、ウンザリするし、それはそう。

でも僕はこの世で生きたいと思うし、君にもこの世で生きて欲しいと思う。

この世は基本イヤな世界だけれども最悪の世界ではないしね。

もっとキレイで前向きなことをいうひともいるだろうけれども、僕にはそういう風にしか言えないな。

これはこの世で生きる上での基本的な認識なんだと僕は考えるんだよね。

君はイヤな気分になったのかもしれない。

そうはそうだと僕は思う。

だけれども僕は暗くない。

何故か明るい。

不安や恐怖もないし、悲観もしていない。

もちろん絶望も。

少なくとも僕に取っては「悲観」や「絶望」は簡単だったんだよね。

僕は全然前向きじゃないけど、あんまり簡単だったから「悲観」とか「絶望」とかしたくなかったのかもしれない。

今の日本で宗教とかいうと変な目で見られるし、実際問題のある宗教やカタチだけの宗教もあるのかもしれない。

別に特定の宗教、宗派に入れとか、宗教も勉強や修行をしろという気がまったくないのだけれども、僕の安心感はどこか宗教的なものだと僕は考えている。

ある種の世界観を持っているから安心しているのじゃないかということです。

その世界観を君に押し付けるつもりはないし、君は君なりの方法で、この不愉快極まりない世界で安心出来るところにいつかたどりつけると僕は考えている。

そういうルートはひとそれぞれだし、僕には僕のルートがあったのだけれども、それはあくまでも僕がたどった道すじでしかないし、君には君だけの道すじがあるのだろうと僕は思うな。

その道すじでイヤな目や痛い目に会うことが一番君を成長させる。

これは断言出来る。

「目的」と「手段」という言い方があるよね。

かぎりなくイヤな世界で、ある種の前向きさや明るさを獲得することは目的なのかもしれない。

だけれども君だけのオリジナルの道すじを歩く事が目的であっても一向に構わないと僕は思うな。

もちろんイヤな思いや痛いをするのだけれども。

これはマゾヒズムではなくて、そううい行為自体に大きな意味があるから、イヤな思いや痛い思いをするだけなんだよね。

無意味に自分を苦しめる必要性はまったくない。

けれどもその時はそう思えなくても、後になって「あの時あんなにイヤな思いをしたから今の自分がある」という予感のようなものをもっているひとが、そういう道すじをたどることはとても普通のことだと僕は思う。

予感という言葉はひどく曖昧だけれども、僕にはそれを予感としか呼べない。

君にはそういう予感があるはずだ。

だから五里霧中だとしても何故か歩いている。

予感を感じなければ、そんな道はそもそも歩きはしないよ。

一歩も足が前に進まなかったはずだ。

ひどく冷たいのは僕にもわかっているのだけれでも今僕に言えることは「歩いて下さい。間違いないです」ということだけだな。

僕が君のかわりに歩くことはできないし、君自身が君自身の道すじをたどることが重要でしょ。

繰り返しになるけれども五里霧中だと思う。

でも歩いているでしょ。

しゃがみこんだこともあったのだろうし、今しゃがみこんでいるもかもしれないけれども、また歩くでしょ。

一歩一歩重いよね。

苦しいと僕は思う。

でもその一歩一歩の中でしか君は成長できないでしょ。

そのことを君はわかっていると思う。

それが予感なんだよね。

今はとにかく休みながらでも歩いて下さい。

「いつか」としか言えないけど、それなりの場所にたどりつける。

これが断言出来る。

 

 

君は登山しているのだと僕は思うな。

登山って失礼だけれども、ツライだけでしょ。

山に登ったって・・・ってひとは思うじゃない。

でも登山家は山登りをするでしょ。

君も登山家なんだよ。

だから苦しい。

でも(例えば)3合目まで登ったら、他のルートで3合目まで登ったひとと逢える。

逢えるというのは必ずしも、そういうひとが目の前にあらわれるという意味ではなくて、例えば本を読んだり、音楽を聴いたり、アスリートの発言を聞いたりして「分かる」っていうことです。

孤独だと思います。

でも、そういう意味では孤独じゃない。

僕はそう思います。