私が「ゆくえ」などという曖昧が言葉を使っているのは、私にわからないからなのです。
ずいぶん前ですがホットドッグプレスの編集長をやっていたひとが「雑誌っていろんなものを寄せ集め(つまり雑)だからダメなのかもしれない」といっていました。
その発言は他界した作家の平井和正とのものの中です。
当時平井和正は「個人雑誌」を出していたのです。全編「平井和正」の「雑誌」です。
インテリ業界の悪口はおそろしく子供っぽいものです。全員インテリ(つまり知識人)なので悪口はワンワードになります。
「バカ」です。
私が知っている範囲で一番「バカ」といわれていたインテリは筑紫哲也さんです。
事実バカだったのかどうか私は知りませんが、筑紫哲也さんはアッチコッチで本当に「バカ」と言われていました。
吉本隆明さんが筑紫哲也編集長時代の「朝日ジャーナル」を罵倒していました。
「あんな同人誌」と。
「朝日新聞のカネとヒトがあれば、あんな同人誌じゃなくて、まともな雑誌が作れるはずなのに」なのです。
でも筑紫哲也編集長時代の「朝日ジャーナル」の成功って「同人誌」にしたことによるのかもしれません。
私が愛する「sight」という雑誌は不定期刊になったのですが(この雑誌は私の師匠の一人、渋谷陽一さんが編集していたはずです)、「sight」は反安部なのです。
「正論」や「WILL」は一応保守の雑誌で今も出版されています。「正論」や「WILL」は雑じゃないのでしょう。
「正論」や「WILL」があるのだから「sight」だってあってよかったはずなのですが。
余計な話ですが私はもう新聞を取ることはないと思います。私はまだ怒りっぽいので新聞を読むと腹が立つ気がするのです。
テレビも偏向しています。でもテレビはチャンネルを変えればいいのです。でも新聞は朝日毎日(リベラル)のどちらかと読売サンケイ(保守)のどちらかと、私は地方在住なので地方紙と、あの新聞が本当に経済のプロによって書かれているかどうかは疑わしいのですが日経新聞を取る必要がある可能性があります。
それだけの新聞を読んでいると「1、時間がかかる、2、腹が立つ」のです。
それって有意義なのでしょうか。
2017年の年末のNHKラジオをらじるらじるで聞いたのですが、ジャーナリストの池上彰さんがネットに関して疑問を呈していました。
「ネットだと自分の好きなネタしか観ないことになる」というのです。
逆にテレビ報道の可能性として
「興味がないことでも報道に接することになる」という可能性があるとも指摘されていました。
ただ当時は相撲界の暴行問題が問題になっていた時期で
「あればっかりやっているのは事実ですね」ともいっていたのです。
自分の興味がないことや接すると不愉快になるネタってノイズです。
私はSNSには完璧に飽きています。
その友人のことは好きなのですがSNS上での縁を切りました。彼のアップ数が多かったからなのです。「そこまであなたの話は聴きたくないから」という理由でSNS上の縁を切ったのです。
もうSNSで知り合うべきひととは知り合ったとも思っていますし、フェイスブックにしてもツイッターにしても「疲れる」のです。
一回ある英語がわからなくて、カナダ人の知人に聞いてもまだわからなくて、アメリカ在住の映画評論家・町山智浩さんにツイッターで質問したことがあります。
町山さんは私の質問に答えてくれました。
でもそれは私は町山智浩さんに質問する前にいろいろ調べてみてわからかったという「経緯」が町山さんに見えたからだと思うのです。
私はリアルで同世代とは基本つきあいません。彼らは私と似たようなものなので勉強にならないのです。
でも年長者や若いひとの観点は新鮮です。
「そんなものの見方があるんだ」と思えます。
私の場合はネットリアルを問わず「周囲3mくらいのひととだけ付き合う」ことにします。
ムダに疲れるのも、ムダに怒るのもイヤなのです。
しかも疲れや怒りの原因がノイズだったら、それはノイズをいれた私が悪いのです。
「ネットの周囲3mの基準は」という、あなたの声が聞こえてきますが、それは直観です。
その直観のことをネットリテラシーと呼ぶのでしょう。
私は50代のオヤジですが、ネットリテラシーを低いとはいえ身につけたようです。