世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

「知らないわからない存在への恐怖」と「立ち居振る舞いがわからない存在への戸惑い」 啓蒙運動

 

EテレのハートネットTVで「マイノリティと笑い」(ここは曖昧なのですが)という番組を放送していたのを私は見ていました。

 

いつものアナウンサーの方はちょっと引いて千原ジュニアさんが司会をされていたのですが、その時に同性カップルには部屋を貸さない大家さんがいるという話題が出ていたのです。

 

その件について私はしくこく考えていたのですが『「知らなない」ということと「どう扱えばいいのかわからない」というが原因だ』と考えるようにました。

 

知らない、わからない存在への恐怖

 

いま(2017年)でいうと北朝鮮です。普通の日本人は北朝鮮が怖いはずです。

 

この「恐怖の理由」があなたにはわかりますか?

 

「知らないから」「わからないから」です。

 

北朝鮮に関するニュース映像で日本で手に入るのはあの国のほぼトップの動画とあの国の怖い女性アナウンサーの動画だけのはずです。

 

結果普通の日本人は北朝鮮について「知らない」し「わからない」のです。

 

あなたの日常生活の中でも一番怖いのは暴力団関係者ではなく「どこがこのひとの地雷なのかがわからないひと」であるはずです。

 

いまの日本人にとっての北朝鮮はそういう存在です。

 

昔オウムの連中のことで日本中が大騒ぎになったことがあります。あの頃に「オウムの信者が警察官の方にも自衛官の方にもいるらしい」と知って私はとても怖いと感じました。

 

でも私はその件に関して何を恐れていたのでしょうか。

 

もう当時オウムは社会問題になっていました。だから警察や自衛隊のオウムの信者がいてそういう人たちが周囲の警察官の方や自衛官の方に布教したとしてもそこまでの広がりがなかったはずです。

 

でも当時の私がオウムに自衛隊や警察が支配されるのではないかと、どうやら思って(考えて感じて)いたようなのです。

 

そんなことはあり得ないのに。

 

あるいは警察官や自衛官の方々はいつもではないのでしょうが拳銃をもっています。当時の私はオウムの信者が唐突に同僚や上司を射殺するのではないかとも思って(考えて感じて)いたようなのです。

 

そんなことはあり得ないのに。

 

いま私が挙げた二つの例で私の発想は飛躍しています。

 

同性カップルの入居を断る大家さんもやっぱり発想が飛躍しているという想像を私はしているのです。

 

たとえば「そういう連中って覚せい剤をやってるんじゃないのかな」という風にです。

 

事実覚せい剤をやっている同性カップルもいるのでしょう。でも同性カップル覚せい剤の間にはほぼ相関関係がないのです。

 

こういうことが私がいう「発想の飛躍」です。

 

接し方、扱い方、立ち居振る舞いがわからないという問題

 

もう一つは「立ち居振る舞いがわからない」という問題です。

 

それがだけが原因ではないのでしょうが日本は国土面積中に森がしめる割合がとても広い国です。

 

それは宗教の一面なのです。

 

たとえば山に登る道に鳥居があったりします。あるいは樹齢数百年の樹にはしめ縄がまいてあります。

 

鳥居があれば「頭を下げようかな」とかしめ縄があれば「柏手を打とうかな」と言う風に立ち居振る舞いが「出てくる」のです。

 

ある車いすに乗っている男性がある言葉をかけられて答え方がわからないといっていました。彼がいっていたのは「大丈夫ですか」と言われて答えがわからないから困るということなのです。

 

彼がいっていたのは「そもそも大丈夫だから街にいるのだし大丈夫じゃなかったらそもそもここにはいない」と思うから答えに困るということです。

 

その番組の司会は千原ジュニアさんでした。ジュニアさんはテレビに出ている有名人です。

 

ジュニアさんと私が世間話をする機会があったら私は「固まる」と思うのです。

 

「このひとはテレビでよく見ているひとだよね。どういう風に接すると良いんだろう」と思って(考えて感じて)「固まる」と思うのです。

 

結論は「普通に接すれば良いだけ」なのですが。

 

ある種のマイノリティと接する時に「このひとにどう接したらいいのだろう」という疑問を持つのは当然です。

 

「接し方がわからなくなる」のです。「立ち居振る舞いがわからない」ともいえます。

 

啓蒙運動の意味

 

こういう問題を私はスッテプバイステップ(一歩ずつ)解決していくのが適切だと考えています。

 

たとえばLGBTの友達や親戚が一人いればそれは「知っている」ということになります。

 

私はそういうことはしたことがないのですが目が不自由な方が人ごみの中にいたとしたらたとえば私はそのひとと左側にたって「私はあなたの左側にいます。もしよかったら私の肩か腕を触ってくれませんか」といいます。

 

男子中学生高校生が遊びで突然友達の背中がパンと叩いたりします。叩かれた方はビックリします。

 

目が見えようと見えまいといきなり自分の体を誰かが触ったら驚くのです。

 

そういう「扱い」であるとか「立ち居振る舞いの方法」がわかるの楽なのです。

 

そういうことを伝えることを「啓蒙運動」と呼ぶのかもしれません。

「看板」よりも「中身contents」でしょう made in Japanの行方

ある通販での広告文が「日本製ですよウチは」みたいなものでした。でもその商品は正直ダメでした。

 

日本製の信頼は先人たちが少しずつ積み上げて来たものです。大昔は「made in Japan」というと「質が悪い」という意味だったのです。

 

それを先人たちが「内容contents」によって変えて来たのです。

 

今でも事実商品が良いだけれども「売り方がなあ」という商品もあります。

 

でもある種の人たちが"made in Japan"を理容して商売をしています。

 

このままではやがて"made in Japan"は質が悪いことのシンボルになってしまいます。

 

私が言いたいのはタイトルの通りです。

 

私は通販でランニングシューズを買うつもりです。私は安くてデザインが良いものをアマゾンで探しているところではあるのですが。

 

たとえばナイキとかアシックスは当然高価ですがその分「信頼」が置けるのです。

 

でも私はあえてまだ無名なメーカーのランニングシューズを買うつもりです。

 

「安くて品ないいのであれば消費者である私は安くて品な良いものを買う」のは当然です。

 

あるルールウェアの注意書きを読んで私は「今ってそういう時代なんだ」と思っています。

 

その注意書きには「この商品は外国製なので普段のサイズよりも2サイズ大きいものを選んでください」と書いてあったのです。

 

そのルームウェアのデザインがよかったのです。

 

"made in Japan"というのは今となってはもはや「看板」です。

 

しかも先人たちがたゆまぬ努力で作った「看板」なのです。それを「食いつぶす」ような商売はやめて欲しいのです。

 

私の予測では10年後には"made in Japan"は粗悪品としての「看板」に成り下がっているはずです。

 

問題は「看板」ではなく「中身contents」なのです。

 

そして同じ日本人の先輩が作り上げた"made in Japan”の看板を食いつぶしている道楽者が多数いるようですから。

 

日本は恥の文化なのです。恥を知りましょうか。

グレー(灰色)な世界の必要性 プロアスリートの世界、芸能界

伊丹十三さんが警察で暴力団対策をやっている女性を主人公にした映画を撮りました。その映画の出来栄えに関してではなくこの映画の考え方について当時いろいろな考えがあったのですがその時に私の考えも不明確なままでした。

 

その後(ああいうことにはなったのですが)プロ野球の選手かプロ野球の世界にはいろうとしているひとが性犯罪を犯す事件があった時に清原さんが「そういうヤツこそプロ野球の世界にいれるべきなんだ」と発言されていたのです。その時にもまだ私の考えは不明確でした。

 

ただ木村太郎さんが芸能界は犯罪者にたいしてあまりにも甘いという趣旨の発言をされているのをよんでやっと考えがまとまりました。

 

暴力団という存在はマフィアとはおそらく違うのです。チンピラと呼ばれる人たちには無知なひとがいます。そういう理由で「あのひとはいい年をしてチンピラをやっている」と悪口を言われるのです。

 

でも暴力団である程度以上の立場の人たちは「法律」にとても詳しいのです。たとえば「この言葉を言ったら恐喝にあたる」とか「この映像が残っていたら自分は逮捕される」であるとかです。

 

私はサービス業をやってきて何回か店員を土下座させるという事件がありましたがあの事件の前に同じくサービス業をやっている友人と話をしていたのです。

 

彼が「怖いひとが店内で大声を出して怒鳴り始めたらどうする」と聞いたので私は「その場で土下座するよ。裏にまわったらダメだし。その場でオレが土下座しえているということはオレがほぼ恐喝を受けているということだからわかっているひとなら逃げちゃうから」と答えたのです。

 

店員を土下座させることがどういう罪に当たるのかは不明ですが理由はともかくそういうことを客がさせればその客は法的処分を受ける可能性が大です。

 

だからそういうことが分かっているひとであれば逃げるのです。でもそういう事件が何回かあったということをそういう知識がない人たちがそうとういるということなのでしょう。

 

(この主語は本来使ってはいけないのですが)人間だれもがどこかに「自分でもよくわからない暗がりのようなもの」をもっています。それはおそらく誰もがそうです。

 

そういう「暗がりを持っている」からといってそういう「暗がりに基づいた行動」をすると法に触れる場合があります。

 

昔つきあいがあった男性が彼はいわゆる性風俗でチカンプレイをしてみたいといっていたのです。

 

性風俗の問題も私にはなんともいえない世界です。

 

ただいわゆるAVが普及して性犯罪が減ったという話は聞いています。

 

たとえばAVにレイプ物といわれる暗い世界があるのですが実際に女性をレイプするのは当然犯罪です。しかしレイプ物のAVを観るのは犯罪ではないという意味で性風俗も(売春は本来違法なのですが)AVもグレー(灰色)の世界だということは可能です。

 

誰もが「暗がり」を抱えているとするならばその「暗がり」とともに生活する必要があります。

 

自分がもっている「暗がり」をある世界の人たちが実際にやってくれると世間一般の人たちはそういう報道に触れることで自分が持っている「暗がり」と折り合いをつけることができるはずです。

 

そういう世界の人たち全員がそうではないのですが「プロアスリートの世界」や「芸能界」のひとたちがするある種破天荒なことに接して世間一般のひとたちが自分が抱え込んでいる「暗がり」とうまく折り合いをつけることができるという意味でプロアスリートや芸能人のある種のスキャンダルは社会の安定に寄与していると私には思える(考えられる感じられる)のです。

 

私は基本テレビを観ませんし芸能人のスキャンダル情報にも疎いのですが。

 

私の場合は小説でひどく残虐な話も読んでいます。たとえばスティーブンキングの小説であるとかドストエフスキーであるとか。

 

私の場合はそういう小説を読むことで「自分の暗がり」と折り合いをつけているのでしょう。

 

誰もが「暗がり」のようなものを抱えていてそれを折り合いをつけながら生活をする必要があるとするとある種の違法行為や不道徳な行為に私たちは定期的に接する必要が

あります。

 

今の日本で多くそれを引き受けているのは芸能人とプロ野球選手のようなプロアスリートなのだと私は考えているのです。だから芸能界やプロアスリートの世界が犯罪にあまいことは事実そうだとしてもそういうことは日本社会全体の安定に寄与していると考えざるを得ません。

 

そういう構造がある以上芸能人の犯罪に芸能界があまいのは日本社会全体の安定を考えてみると必要なことだといわざるを得ないのです。

 

宗教ってそうとう大きいですよ 誰にとっても 「死」とか考えようか

原始キリスト教がそうであったのかどうかは不明です。

 

ただキリスト教のある種の原理として「子をなさないセックスはすべてダメだ」という考えがあるのです。

 

この原理に従うと

 

マスターベーション

・避妊

・人工中絶

・同性愛

 

はダメになります。

 

バチカンはいわばキリスト教の総本山なのでそういうところは「どうしても押し通さなくてはならない部分」と「時代とともに変化していくことを受けいる部分」の両方が必要です。

 

現実問題としてマスターベーションも避妊も人工中絶もダメだという主張には今の世界においてはそうとう無理があります。

 

確かにバチカンの法王の判断には人道的見地も含まれていたはずです。

 

ですが「子をなさないセックスはすべてダメだ」という原理原則にあまりに固執することの方が現代社会では危険性があるのかもしれないという判断もあったはずです。

 

ジェレド・ダイアモンドさんが(こういう言い方に私は抵抗があるのですが)未開社会の女性について書こうとされたことがあったらしいのですがあまりに女性の地位が低いので辞めたという件があったらしいのです。

 

ある集団を維持するためには女性の数が重要になります。

 

男の浮気はどこか許されるのに女の浮気に世間が厳しいのもこの理由によるものだと私は考えています。

 

日本には世界史上類をみない一夫多妻のシステムがあります。「大奥」です。

 

そういう漫画も映画(?)もあったのですが逆大奥は存在しません。

 

男性が複数の女性と関係を持つと出産の可能性が上がります。

 

しかし女性が複数の男性と関係をもっても出産の可能性はたいしてあがらないのです。

 

人類学の研究で女性が「贈与」の対象になっていたことが明らかにされています。

 

これが男ではダメなのです。

 

女性の絶対数があればその集団に子供が産まれる可能性が上がるのですが男性の絶対数が増えても子供が生まれる可能性はたいしてあがらないのですから。

 

というようなことを書くと女性たちが激怒されると思うので(これは杉浦日名子さんがテレビでおっしゃっていたことの引用なのですが)江戸の長屋の未婚女性のあり方にも言及しておきます。

 

江戸という街は圧倒的に男あまりの街でした。そういう街だから遊郭も盛んだったのです。

 

そして江戸の長屋に未婚女性がいる場合にはそういうひとは複数の男性と関係を持つことが普通だったようです。

 

江戸という街には女性の絶対数が少ないのですから。

 

そしてそういう女性が子供を産むと(当時は当然DNA鑑定などありませんから)彼女と関係を持ったすべての男性が「あの子はオレの子かもしれない」と思って周囲の大人連中からとてもかわいがられてよく育っていたそうなのです。

 

データ主義という言い方があるのですが印象には残るのだが事実とは異なる数字のイメージが一人歩きしている例があまりにも多いのです。ですから「普通にデータを知って事実を知りましょう」という意味がデータ主義という言い方の背景にはあるのです。

 

これは総務省統計局の人口のデータのコピペです。

第1表   男女別人口 (各年10月1日現在) - 総人口(大正9年~平成12年),日本人人口(昭和25年~平成12年)
                 
Table 1.    Population by Sex (as of October 1 of Each Year) - Total population (from 1920 to 2000), Japanese population (from1950 to 2000)
                 
(単位 千人)             (Thousand persons)
                 
      総 人 口        Total population 日本人人口       Japanese population
 年  次   男女計 男女計
Year    Both sexes Male Female Both sexes Male Female
                 
大正9年 1920 1) 55,963 28,044 27,919           -           -           -
  10年 1921   56,666 28,412 28,254           -           -           -
  11年 1922   57,390 28,800 28,590           -           -           -
  12年 1923   58,119 29,177 28,942           -           -           -
  13年 1924   58,876 29,569 29,307           -           -           -
  14年 1925 1) 59,737 30,013 29,724           -           -           -
  15年 1926   60,741 30,521 30,220           -           -           -
昭和2年 1927   61,659 30,982 30,678           -           -           -
  3年 1928   62,595 31,449 31,146           -           -           -
  4年 1929   63,461 31,891 31,570           -           -           -
  5年 1930 1) 64,450 32,390 32,060           -           -           -
  6年 1931   65,457 32,899 32,559           -           -           -
  7年 1932   66,434 33,355 33,079           -           -           -
  8年 1933   67,432 33,845 33,587           -           -           -
  9年 1934   68,309 34,294 34,015           -           -           -
  10年 1935 1) 69,254 34,734 34,520           -           -           -
  11年 1936   70,114 35,103 35,011           -           -           -
  12年 1937   70,630 35,128 35,503           -           -           -
  13年 1938   71,013 35,125 35,888           -           -           -
  14年 1939   71,380 35,226 36,154           -           -           -
  15年 1940 2) 71,933 35,387 36,546           -           -           -
  16年 1941   72,218           -           -           -           -           -
  17年 1942   72,880           -           -           -           -           -
  18年 1943   73,903           -           -           -           -           -
  19年 1944   74,433           -           -           -           -           -
  20年 1945 3) 72,147           -           -           -           -           -
  21年 1946   75,750           -           -           -           -           -
  22年 1947 4) 78,101 38,129 39,972           -           -           -
  23年 1948   80,002 39,130 40,873           -           -           -
  24年 1949   81,773 40,063 41,710           -           -           -
  25年 1950 1) 83,200 40,812 42,388 82,672 40,514 42,158
  26年 1951   84,541 41,489 43,052 83,997 41,184 42,814
  27年 1952   85,808 42,128 43,680 85,247 41,815 43,432
  28年 1953   86,981 42,721 44,260 86,406 42,402 44,004
  29年 1954   88,239 43,344 44,895 87,652 43,020 44,632
  30年 1955 1) 89,276 43,861 45,415 88,678 43,533 45,145
  31年 1956   90,172 44,301 45,871 89,573 43,974 45,599
  32年 1957   90,928 44,671 46,258 90,327 44,342 45,985
  33年 1958   91,767 45,078 46,689 91,162 44,749 46,413
  34年 1959   92,641 45,504 47,137 92,033 45,174 46,858
  35年 1960 1) 93,419 45,878 47,541 92,841 45,566 47,275
  36年 1961   94,287 46,300 47,987 93,724 45,998 47,727
  37年 1962   95,181 46,733 48,447 94,613 46,430 48,183
  38年 1963   96,156 47,208 48,947 95,580 46,901 48,679
  39年 1964   97,182 47,710 49,471 96,597 47,399 49,199
  40年 1965 1) 98,275 48,244 50,031 97,681 47,928 49,753
  41年 1966   99,036 48,611 50,425 98,443 48,297 50,147
  42年 1967   100,196 49,180 51,016 99,603 48,866 50,737
  43年 1968   101,331 49,739 51,592 100,737 49,425 51,312

 

この数値の最小単位は千人です。このデータによると日本の人口が一億人を突破したのは1967年か1968年です。

 

以下のデータは栗本慎一郎さんの「幻想としての経済」からの引用です。(アマゾンのリンクを張っておきます)

 

 

 

栗本先生の大学院時代の師速水融先生の研究をこの本で栗本先生が引用されています。

 

江戸前期(ということは1600年頃から1720年くらいまでの間)に日本の人口は4倍に増えている可能性があるのです。江戸前期の日本の人口は500万人から1800万人の間だと考えられているようです。

 

8代将軍吉宗が3千万人程度でその後明治6年の3千4百万人という人口統計に至るまでほぼ横ばいです。

 

栗本先生は慎重にこの謎の日本の人口増加については結論は出されていないのですがその後の研究でこの謎がとけているのです。

 

 

はじめたばかりの浄土真宗 (角川ソフィア文庫)

はじめたばかりの浄土真宗 (角川ソフィア文庫)

 

 

この日本史上異常な日本の人口増大は宗教上の理由です。

 

代表が浄土真宗の影響です。昔は避妊の技術も人工中絶の技術もなかったので産まれた赤ちゃんを「間引く」ことは普通に行われていたらしいのですが浄土真宗の倫理観を持った人々が「間引く」ことをしなくなったことが大きな理由なのです。

 

明治にはいって海外に移民している人たちがいます。私の親戚もブラジルに移民していますし前に知り合いだったひとの親戚もカナダに移民しています。

 

一番有名なのがハワイに行った今の広島の人たちなのですが。

 

広島は浄土真宗が盛んなのです。あるいは今の大阪で商売をしていた人たちの中に「近江商人」がいます。彼らは浄土真宗の倫理観で商売をしていたのです。

 

そして浄土真宗一神教的なのです。

 

遠藤周作の「沈黙」という小説があります。

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 

 

スコセッシ監督で映画にもなっています。これはキリスト教の感覚と日本の感覚の間で揺れた遠藤周作ならでは仕事です。いわゆるキリスト教圏のひとにとっては教会や教団とは無関係なキリスト教の在り方という意味もあるのでしょう。

 

私は「沈黙」に流れている感覚は日本的なのだろうし浄土真宗の信徒で生長の家師友の私の感覚にとてもシンクロするのです。

 

ご利益っていいます。あれを雨の日の雨みたいにとらえるのです。たとえばオチョコで雨を集めるのはコップで雨を集めるのかバケツで雨を集めるのかはそれとも集めないのかは自分次第なのです。

 

私はご利益をそういう感覚でとらえているはずです。

 

浄土真宗は「他力本願」なのですが。私は「自分には光を生み出す力が備わっていないが日光はいつも降り注いでいる」というイメージがあるのです。

 

「沈黙」にもそういう肌触りがあるのです。もっとも遠藤周作は日本と日本人の宗教観にはキツイことをずいぶん書いているのですが。

 

データ主義に話をもどしますが日本の総人口が1億人をこえているのは1960年代以降の数十年間だけです。

 

もし本気で日本の人口を1億人以下にしたくないのなら「移民」を入れるのが最適解だと私は考えています。

 

移民国家アメリカでは普通のことなのですが移民一世は地位の低い仕事につくのが普通なのです。そして二世はそういうところから抜け出すために頑張るのです。

 

これは東京や大阪のような大都会に出て行った地方出身者を思い浮かべればわかりやすいと私は考えています。

 

ただ日本人が外国人に日本語を教えることに慣れていません。移民を受けいるのであれば日本語教育が絶対必要です。

 

そして日本の社会規範のようなものを伝えるためにはこの本が良いと私は考えています。新渡戸稲造の「武士道」です。

 

 

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

 

 

私はまだこの本は読みかけです。ただこの本を私がずっと読まないでいたのには理由があります。この本のタイトルがイヤだったのです。私が武士道と聞いてイメージするのはハリウッド映画の「ラストサムライ」だったのです。

 

映画「ラストサムライ」も日本人が見るととても面白いのです。どこがかというと映画「ラストサムライ」では渡辺謙さん演じる頼りがいのある重臣をまだ若き天皇陛下が重大な決断を下す時に頼る場面があるのですが「天皇」は「皇帝」や「王」ではないということがわかっている日本人にはその描写に違和感を覚えるはずです。

 

天皇は意味でいうとバチカン法王に近いはずです。天皇バチカン法王だと考えると意日本史がわかりやすいのです。

 

同じハリウッド映画なのですが「ラストエンペラー」は今でいう中国とアメリカやヨーロッパで「皇帝」や「国王」という概念conceptが共通しているためにそこまでの違和感を今の中国のひとが観ても抱かないはずです。

 

話がそれましたが「武士道」という本は新渡戸稲造がベルギーの法学者から「日本では宗教教育を行わないと聞いたのだが宗教教育を行わないでどうやって社会規範やモラルは成立するのかわからない」と聞かれてその答えとして書いた本なのです。

 

新渡戸の答えは正しいかどうか私には判断がつきません。ただこの本にある社会規範やモラルが「宗教によるものではないこと」が重要なのです。

 

余計な話ですが「日本人が宗教に寛容だ」というのは間違いです。これは日本人の宗教論理によるものなのです。

 

これは本居宣長の「神」の定義を今の若者言葉を使って私が勝手に現代語訳したものなのですが日本語でいう「神」とは「やばい存在すべて」です。「やばっ」と思うものは「神」です。

 

それが「良い存在であるとか悪い存在であるとかは無関係」なのです。

 

たとえば「七福神」というめでたいとされるう7つの神様がいますがこの中には外国の神様もいます。

 

日本人の宗教論理を使うとこれを「十二福神」にしてお釈迦様もイエスさまもムハムマッド氏も法華経阿弥陀様にも入っていただくことが可能なのです。

 

そういうことは日本人は日本人の宗教論理上可能なのです。こういう宗教論理を持っているので日本人が宗教に寛容だと勘違いされているだけなのです。

 

事実創価学会が非創価学会員には死ぬほど嫌われています。学会員の友達が宗教上の理由で結婚できなかったと前にいっていたのを覚えています。

 

創価学会は「十二福神」になりづらい宗教体系を持っているから多くの日本人から差別をうけています。

 

まだ霊感商法をやっているのか不明ですが統一教会は私が勝手にいっている「十二福神」にいれやすい宗教体系ですし幸福の科学の宗教体系も「十二福神」に入れやすいのです。

 

日本人の宗教論理に当てはまりやすい宗教体系には日本人が寛容なのだということに過ぎないのです。

 

話を元に戻しますがもし日本が移民を受け入れるのなら徹底した日本語教育新渡戸稲造の「武士道」のモラルの教育が重要になるはずです。「武士道」は非宗教の倫理を説いた本なのですから。

 

 

定本 葉隠〔全訳注〕 上 (ちくま学芸文庫)

定本 葉隠〔全訳注〕 上 (ちくま学芸文庫)

 

 

これは「葉隠」なのですがこの本の中で一番有名な言葉は「武士道というは死ぬことみつけたり」という言葉です。

 

これは私の曲解である可能性がとても高いのですが若い頃に何かの本で読んだ内容に私が影響を受けてしまっているので普通に読めないのです。

 

私の曲解は「人間は誰もが明日死ぬ可能性があるのだから一瞬一瞬をおおきな喜びとともに生きるのは筋なのだ」という意味で「武士道というは死ぬこととみつけたり」と書いているというものです。

 

これは禅の発想だと思うのですが「今ここ」のことだけを考えて生きるのがベストです。ですが誰もが隣の部屋のことも明後日のことも遠い昔のことも考えてしまいます。

 

座禅には「今ここのことだけを考えるトレーニング」という意味もあります。

 

未来悪いイメージに苦しむ習慣があるひとに「あなたが思う最悪の未来を想像してください」と言って「その最悪の時にあなたはどうしますか」という風に考えてもらうということがありうるのです。全員ではないしすべての状況に対応できるわけではありません。でもなんとなく最悪の状況をクリアにイメージしていない人が(実は)多いのです。そういうひとが「最悪の未来」をクリアにイメージすることで楽になることもあるのです、。「葉隠」の死にはそういう意味もある気がしています。

 

 

そういう曲解を長年続けている私にはある本の内容が衝撃的でした。孫引きなので元の文章とは大幅に違う可能性がありますが。

 

あした死ぬかもよ?

あした死ぬかもよ?

 
あした死んでも後悔しないためのノート

あした死んでも後悔しないためのノート

 

 

その本には「あなたは病院のベッドで横になっています。点滴のチューブが手に突き刺さっています。あなたはもうすぐ死ぬのです。あなたはこういう時に何を考えて何を後悔するのでしょうか」

 

私はこの本からの引用を読んで「これって一つの現代の葉隠だ」と思って驚いたのです。

 

今の日本社会は「死を隠蔽している社会」です。立ち合い出産で「誕生」の瞬間に立ち会うひとがそうとういるのに「死」の瞬間に立ち会ったひとも「死」の瞬間に立ち会う仕組み作りもなされていない社会ですから。

 

当然ですが人間誰でも死にます。でも「老けない方法」に関する情報は山のようにあるのに「キレイに死ぬ方法(自殺という意味ではありませんん)」に関する情報は極めて少ないのです。

 

「キレイに死ぬ方法」というと「自殺」という風に話が飛んでしまうのです。ヘンな言い方ですがあなたも私も自殺しなくてもいずれ死にます。当然でしょう。

 

今の日本社会は「死を隠蔽している社会」なのです。

 

引用元が不明確なので書けませんが橋爪大三郎さんの本だった記憶があります。橋爪先生はその本で自分が使っている単語をいくつか定義しています。不明確なのですが「政治を自分はこうとらえます」という風にです。

 

こういうことはとても大事です。

 

 

いきなりはじめる仏教入門 (角川ソフィア文庫)

いきなりはじめる仏教入門 (角川ソフィア文庫)

 

 

釈徹宗先生が宗教の定義を試みています。そして「それは厳密にはできない」とことにはなります。

 

今の人類はホモサピエンスで一つ前がネアンデルタール人なのですが、ネアンデルタールはすでに埋葬をしていたらしいのです。そこから考えると「死と向き合う存在が人類だ」ともいえるのです。別に葬式仏教でいいという意味ではありません。だけれども宗教の一つの大きな意味に死と向き合うということがあるはずです。違う言い方をすると「死と向き合わない存在は人類ではない」ともいえます。

 

もめまくっている靖国神社も戦死者の方と向き合うところです。

 

宗教の中の死と向き合う要素を重要視するのであれば人類と死と宗教というつながりでの宗教が見えてくるはずです。

(これは悪口ではありません)組織って仕組みづくりが大事だから テレビ報道の行き詰まり 時代はメジャーチェンジ

私はテレビを見なくなっています。ある時に夕方のニュースを観ていて「このニュースキャスターは安定感があっていいな」と思っていました。

 

彼はジャーニーズ事務所のアイドルでした。私は「だから髪型がちょっと変わってたんだ」と思いはしたものの彼のニュースキャスターとしての安定感はとてもいいと思ったのです。

 

筑紫哲也さんがニュース23をやっていた頃に話題になっていたことがあったのです。

 

「筑紫さんに編集権を持たせてあの番組の編集長をやらせるのが筋なんじゃないかな」と。

 

今の日本は保守系のメディアとリベラル系のメディアに別れています。

 

いろいろ話題になった後に終わった「クローズアップ現代」(今はクローズアップ現代プラス)はとてもニュートラルな番組でした。

 

民主党政権の時に当時の民主党政権の要職についていたひとがゲストで出演されていたのですが国分裕子さんの普通の質問に何度も困っていたのです。こたられなかったのです。

 

だから国分さんの質問への答えは「そんな仮定の質問には答えられない」というものでした。

 

職場で上のポジションにいるひとは職場のシフト作りがとても重要な仕事になります。あるひとがクローズアップ現代にコメンテーターとして出演された時の話を書いていました。

 

若いディレクターが半年かけて取材したVTRの編集に立ち会ったというのです。

 

国分裕子さんは文字通り「アンカーウーマン」だったのです。リレーの最終走者を「アンカー」といいますよね。「アンカーウーマン」というのはやはり番組の最終走者なのです。

 

多くの人々の取材等を最後に引き継ぐひとだという意味で「アンカーウーマン」だったといえるのです。

 

でもいくら優秀なスタッフでも「この話題一日で取材して来い」といわれてしまってはまともな取材ができるはずがないのです。

 

元地方紙の記者がいっていたのですがもちろん日々のニュースも追いかけるのだけれども自分が興味を持っていることの取材もしていたということでした。

 

今のテレビ報道の行き詰まりは「良いシフトが組めないこと」に問題があります。

 

いくら予算がなくても「空いている時間には好きな取材をしていい」というシフトが組めるのなら現状のテレビ報道の体たらくはないはずです。

 

若いひとであっても「そのひとに裁量を持たせて好きな取材をさせる」という発想がいつの間にか今のテレビ報道にはなくなっています。

 

たとえば大規模災害があったとします。現実問題としてニュースキャスター本人が現地に入ったからといってそのニュースキャスターには「現実はこうだったのか」ということが分かるという意味以外の意味はほぼないのです。

 

もちろん皮膚感覚として「現実はこうだったのか」とわかることも重要です。

 

だけれどもニュース番組が伝えるべき事柄は「現実はこうだったのか」というような抽象的なことではありません。

 

大昔にオウムの事件が起きた時に私は「この事件は20年30年かけて取材するような事件だ」とおもいましたし東日本大震災の時には「50年は取材しなきゃ」と思っています。

 

現実にいわゆるニュース番組はそうしたでしょうか。私にはそうは思えません。

 

この件は単にテレビ報道だけの問題ではありません。

 

今の日本の大企業では良いシフトがくめていないはずです。

 

日本企業がよかった頃には三つのものがあったといいます。

 

「ブラブラおじさん」「喫煙所トーク」「闇研」の三つです。

 

「ブラブラオジサン」には知識も経験もあるので「あそこの部署でこういう研究をしてるんだってさ」とある部署と違う部署の仕事を組み合わるような世間話をうまくしていいたのです。

 

タバコは体に悪いのですが「喫煙所でウチこんなことやってんですよね」というようなことをいうのが組織の潤滑油になっていたようですね。

 

そして研究しようと思うと研究施設が必要なので自分が研究したいことを企業の研究施設を使ってやるのが闇研です。

 

変革には「小さな変革(つまりマイナーチェンジ)」と「大きな変革(つまりメジャーチェンジ)」があります。

 

カローラカローラですよ。でも毎年モデルチェンジをしますよね。あれがマイナーチェンジです。

 

でもトヨタトヨタブランドの力はつかわないで高級車であるレクサスを作り上げました。

 

レクサスは単に自動車だけの問題ではありません。世界中に(トヨタのディーラー網はすでにあったのに)ゼロからレクサスのディーラー網を作る必要もありまたしやそれまでなかった(存在しなかった)レクサスという高級車を世界中に認知させるための努力も必要だったのです。

 

余計な話ですがソニーのエクスペニアがサムスンのギャラクシーに負けたというような報道がやめて欲しいのです。

 

スペック上ソニーのエクスペニアはいわばクラウンです。サムスンのギャラクシーはいわばカローラです。

 

ソニーのエクスペリアがサムスンのギャラクシーに負けたという発想は「シェア」を問題にしています。

 

カローラとクラウンのどちらののシェアが大きいでしょうか。もちろんカローラです。

 

カローラは大衆車ですから。

 

この件については稿を改めますが。

 

ただ時代はメジャーチェンジを求めています。

 

大企業は自社ビルをもっていると思うのですが大企業の自社ビルはどこも似たようなビルですよね。

 

そのこと自体が問題です。しかもたいてい港区にあるでしょう。それも問題です。

 

よくわからない場所によくわからない建物であるような自社オフィスビル(もう今の時代であれはビルとも呼べないような)を絶てるくらいのメジャーチェンジが必要になっています。

 

そういう変革を可能にするのは「一芸入社」で入って来た社員のはずです。

 

その比率は不明ですが一芸入社で入って来たひとのほとんどは鳴かず飛ばずで終わるはずです。ただ1000人に一人か1万人に一人かという割合で大ヒットを飛ばすひとが現れるのです。その人がいわば御社の救世主になります。

 

「一芸入社」で何人か取ったけどダメだったと思うのは考えが違っています。

 

1万人取って一人が大当たりするのが「一芸入社」でひとを雇う意味なのです。

ドラッカーがいう「スペシャリストであって同時にジェネラリストであるひと」 上沼恵美子さんのご主人、あなたが友達だったら説教しますよ

ある年齢以降私は「頼むからオレをムダに疲れさせないで」と願っていました。「この疲れって明らかにムダな疲れでしょ。そういうがオレは死ぬほどイヤな訳よ」と。

 

これはスペシャリストの発想です。

 

一方やはりある年齢以降「ひとの仕切りや段取り」が私にはどうしても気に食わなくなってきたのです。

 

昔から「段取り八分」といってはためにはぼーっとしているように見えている場面でジェネラリストは「段取りをため」に強力に考えているのです。

 

古典落語にこういうエピソードがあります。私が30歳の時にはその「感じ」がわかっていました。

 

植木職人の親方がいうのです。「あたしがこうやってタバコをくゆらせながら庭をぼーっと眺めていると遊んでいるみたいに見えるでしょう。でもこうやっている時があたしは一番働いているんですよ」と。

 

ある年齢までは遠慮していましたがある年齢以降「もういい」と思って「その場の段取り」を始めるようになっていて周囲からも感謝されるようになっています。

 

もう少し具体的に書きます。

 

上沼さんのご主人が定期的に上沼さんを言い負かすらしいのですが私が(事実言い負かすことが簡単だったとしても)53年間生きてきて誰かを言い負かしたことは一回だけです。

 

誰かを言い負かしたとしても「言い負かした方も気分が悪いし言い負かされた方も気分が悪い」のです。

 

そういうことをしていることで上沼さんのご主人は私の説教の対象です。

 

上沼さんのご主人に関して上沼さんが驚いていてテレビで紹介されていたのですがヒドイ絵しか描けなかった上沼さんのご主人がすごい良い絵が書けるようになっていたのです。

 

もう一例あげます。その話を聞いて「オレもそういうことしてるかも」と思って私はとても反省したのですが上沼さんご夫婦はハワイに別荘かコンドミニアムを持っているらしいのです。

 

そして上沼さんより先にハワイにいって上沼さんを車で空港まで迎えに行くらしいのです。そしてご主人が空港で上沼さんが笑顔で手をふると黙って駐車場に向かうらしいのです。当然上沼さんは気に食わないのです。

 

このご主人の「感覚」や「思考」が私に丸わかりなのです。

 

スペシャリストって「これってムダだよね」ということは死んでもしたくないのです。そして逆に「これには意味があるよね」ということはバカみたいに頑張るのです。

 

上沼さんのご主人は「絵」に関しては「意味」や「価値」を感じたのです。だからあっという間にうまくなったのです。

 

普通に考えると上沼さんが手を振ったらやはりご主人も笑顔を作って手を振ってもいいし「飛行機疲れただろう」とか優しいコトバを書けてもいいしコロコロも持ってあげてもいいのです。

 

でもスペシャリストは「嫁を飛行場に迎えに行くことは意味も価値もあるからするが嫁が空港で手を振ったということはオレのことが分かったってことだよね。当然彼女はこれから駐車場に向かうってわかる訳だしコロコロくらい彼女にも持てるから(そしてそういうことでムダに疲れるのは死んでもイヤだから)無表情で駐車場に向かう」という感情や思考の流れをもってしまうのです。

 

私は若い人から何回か叱られています。意味は「あんたは傲慢だ」というものです。「あんたができるのかどうか知らないがあなたは世間のひとをバカにしている」という説教を食らっているのです。

 

私は一方で「段取る」ひとでもあるのです。

 

すべての段取るひとが内心思っているのはずです。「ひとの良い段取りで何にも考えないでただ働きたいんだけれども結局ひとの段取りだと自分は気に食わないから自分って疲れまくることをしてしまうんだよね」と。

 

上沼さんのご主人は年長者ではありますがもし友達になったら「あんたの考えはわかるけどそういうことをしているようでは人というレベルでダメですよ」と私は説教します。

 

そして私はどうもドラッカーがいうこれからの世界に必要な人材である「スペシャリストであって同時にジェネラリストであるひと」であるようです。

発達障害についての研究にカネとヒトを使って欲しいのですよ

発達障害という名称自体もおそらく変更されるのでしょう。「障害」という日本語はどこか発達障害にはなじみませんから。

 

発達障害を抱えているひとの多くは「得意分野」と「不得意分野」が発達障害を抱えていないひとと違うだけである場合がとても多いだけですから。

 

ただ発達障害の勉強を始めて今私の中で強力にいろいろな過去や今の出来事が解け始めています。

 

「あれもこれも自分のせいじゃなかったんだ」と納得できているからです。

 

私が発達障害を抱えているとすると納得できることがとても多いのです。

 

ある時に私は「これってあっているよね」と思ってあることをいっているのですが相手が許してくれたからよかったもののそのひとはそうとう怒っていました。

 

あるいは小学校にあがって私は毎朝罵倒されていました。自分でも不思議だったのですがその日学校に持っていく持ち物がどうしても見当たらないのです。当時自分でも謎だったのです。毎朝毎朝普通に学校に持っていくものを自分は失くしてしまうんだろうと思って。

 

あるいは片づけです。子供の頃からどうしても片づけられないのです。

 

もしドラ」で有名になったのかもしれませんが私はドラッカー発達障害を抱えていたのではないかと疑っています。

 

ドラッカーの「感じ」がわかるのです。

 

これはドラッカーがフィールドワークをしていた時の有名なエピソードです。ドラッカーがある機械の前で何時間もただ立っている女性工員に質問しています。

 

「あなたは何をしているんですか」と。

 

そうすると女性行員は「私はこの機械のオペレーターなんですよ。私はこの機械が動かないと仕事ができないんです。私ずっと機械の修理係に来てくれるように頼んでいるだけれども来てくれないんですよ」と答えたのです。

 

この「感じ」が私にはわかるのです。

 

ずいぶん私が年を取ってドラッカーを読んだ時に私はそうとう驚いています。

 

私が小学校高学年で「こうするものだ」と決めていたことをドラッカーがより詳細にかいていたのです。

 

私は小学校高学年の時に「問題はいつも複数あるのだけれども体が一つしかないので問題に優先順位をつける。そして優先順位一位のことだけをする。それが終わるまでは他の問題には手をつけない。優先順位一位の問題が終わってからほかの問題に手をつける」と考えていたのです。

 

ドラッカーは「優先順位一位の問題は終わった後にまた問題をあぶりだしてまた優先順位を付け直す。そして優先順位一位の問題だけをまたやる」と書いていたのです。

 

ある種の発達障害を抱えているひとはシングルタスク(一度に一つの問題しかできない)のです。発達障害を抱えていないひとはマルチタスク(一度に複数の問題に取り組める)なのです。

 

ドラッカーがそういうことを書いているということはドラッカー発達障害を抱えていた可能性があります。

 

ただ私は小学校高学年の時にすべてがスムーズに行き始めたのですがそのスムーズさに私はあり得ないほどの恐怖を感じたのです。

 

そして40年以上の間「わだかまっていて」「こんがらがっていて」「混乱して」「混濁し続けて」きました。

 

そしてごくごく最近やっと数十年ぶりに何もかもスムーズに行き始めて来ています。

 

考えも本当に混乱していたのですがその混乱混濁から50歳を越えて抜け出しつつあるようです。

 

私は本当に発達障害の研究にカネをヒトを使って欲しいのです。そういう人たちの中から次の日本を作り出すひとが出てきます(それが私だと本当にいいのですが)

 

この全員が発達障害を抱えていたといわれているのですよ。

 

漱石の「坊ちゃん」の主人公(そういう登場人物を書いたということは漱石にも発達障害の疑いがあります)、野口英世坂本龍馬、ジョンFケネディ大統領、発明王エジソン、スティーブンジョブスとビルゲイツ(この二人は可能性のレベルですが)、哲学者ヴィトゲンシュタイン

 

ひとによっては人類の進歩は発達障害を抱えているひとによってなされたといえるというほどなのです。

 

日本人に多数の発達障害を抱えているひとがいるというのは日本の大きな可能性なのです。