世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

葛藤を抱えると他者がわかる 橋下徹考 考え議論の無効化

私は葛藤をおおく抱え込んでいます。自分で自分の葛藤がうっとうしいのですが。持って産まれたものなのか後天的なものなのかは今となっては不明です。

 

私の好きな日本語は名詞では「わだまかり」で動詞では「わだかまる」なのです。

 

小学校高学年の時に何もかもとてもスムーズに私も私の周囲も動いていて時期があってとても怖くなったのを覚えています。それ以降ずっとわだかまり続けています。

 

橋下徹さんに関してもある程度わかる気がします。

 

どの程度自覚的だったのかは不明ですが(私は橋下徹さんの議論めいたことはほぼ観ていません。観る必要がないと思っていたからです。その理由を以下に書きます)議論や討論であればそこにはルールが存在します。

 

若い友人と話していて「君悪かったんだね」と思ったのですが彼は「格闘技が強くてもケンカは別物だ」と言っていたのです。前に書いたこともあるのですが「一番強い男」というのはファンタジーの産物です。というのはどういうカタチにせよ戦う以場合には「共通のルールが必要になる」からです。なんでもありなのだとしたら「核ミサイルのスイッチを押せるひとに勝てるひとはいません」から。

 

単純に考えても「打撃立ち技系」と「関節技寝技系」との闘いは不可能です。

 

「プロレスはショーで弱いんだ」というひとがいますがそうではありません。私の仮説では「日本はグレーゾーンが広い国で日本人の行動様式にもグレーゾーンの広さ」が今でもあります。(これが伝統的なものなのかどうかは不明です)

 

単純に極端にいうと「日本人にとって多くの場合『白黒つけたがるのはバカ』でしかない」からです。これを話し言葉で書くは「それはまあそういうことだから。そういうことじゃない。だから穏便にまあそういうことで」という結論のつけ方があるのです。これを日本人の非論理性の表れだとみるのは間違いです。この話し言葉にはもちろん一貫した論理が存在するからです。

 

プロレスは他の格闘技なら危険なので絶対やってはダメだということを明確にルール上ダメなんだとしていないのです。グレーゾーンが広い格闘技なのです。

 

余計な話ですが現タレントの北斗晶さんとライバル神取忍さんの試合を最近ユーチューブでみて私は楽しめませんでした。今だにユーチューブの上位表示だということは今だに語り継がれるほどの名勝負なのでしょうが「明らかに危ない」のです。

 

この試合は神取さんがコンスタントに責めて北斗さんがカウンター一発を繰り返していたのですが両者の命にかかわる事故が起きても全然おかしくない内容だったのです。

 

そういう試合内容だったので私は楽しめなかったのです。

 

私は余計な話をして本題に行けないひとなのですが「型どおりの物語や描写が数多く含まれているという意味」で私は「時代劇」を再興して欲しいですし「落語」をラジオで多く放送して欲しいのです(私見ですがテレビと落語は相性が悪いのです。実際落語のCDは多く出ていますがDVD付きで落語家が自分の話を出しているのは桂枝雀さんだけで枝雀さんは私が知っている範囲に唯一テレビで観て面白い落語をやる方でした)。

 

これは時代劇の決まりきったパターンの物語の一つです。とても強い剣士が他流試合を挑まれます。でもそこの流派は他流試合を禁じているのです。だからその剣士は悩むのです。おまけに彼は他流試合を挑まれた相手から罵倒されるのです。「オレからの挑戦にこたえられないお前は弱いのだ」と。でも彼の師匠は「他流試合は絶対ダメだ」というのです。時代劇にはこういう型どおりの物語があったのです。

 

こういうリポートをするのは吉田豪さんなのですが私がプロレスを観ていた最後の方で新日のプロレスがしょっちゅう他流試合をしていました。私はそれを何回か見ているのですがまったく面白くなくて結果プロレスを観なくなったのです。

 

その件について吉田豪さんが新日の名レフリーだったミスター高橋が「ガチでいけ」という指示を出していた事をずっと後になってしって「そういうことだったのか」と納得しました。

 

文筆業界で一二を争う男くさいひと椎名誠さんがケンカについて昔書いていました。「ケンカは一瞬で終わるしケンカなんて勝っても負けてもあんな後味の悪いものはない」と。

 

私がプロレスを観なくなる前にプロレスはある種の行き詰まりを見せていたのです。「プロレスラーって実は弱いんじゃないか」とか「あれはしょせんショーで格闘技ではない」という見方が出ていたのです。

 

ミスター高橋の判断は間違えなのですが当時のプロレス界の行き詰まり状況での打開策が他に浮かばなかったのだと私は想像しています。

 

ただ「ガチの試合」を観ていた私は「これホントにつまらないな」としか思えなかったのです。「ガチの戦い」なんてつまらないモノなのです。

 

一流のプロレスラーの条件の一つとして私は「ルールの変更が試合中にできること」を間違えなく上げます。

 

アントニオ猪木さんにはこれが出来たのです。

 

猪木さんのライバルはジャイアント馬場さんです。馬場さんは「いるだけでスター」でした。ですから猪木さんには「考える必要」があったのです。そして猪木さんには「天才性」がありました。

 

猪木さんは「ルールを試合中に突然変える能力がありそれが私が考える猪木さんの天才性」でした。

 

ここから橋下徹さんに話を持っていくのですが「議論」や「討論」は当然「ルールがある」のです。そのルールはあまり当然すぎて「議論」をしている(あるいは「討論」をしている)ひとのほとんどには意識できないほど当然すぎることなのです。

 

橋下徹さんの議論とか討論を私は見る必要がないと思っていたのは「他流試合」を意図的に橋下さんがしていたからです。

 

「議論」や「討論」をここでは野球だと考えてみましょう。皆は野球をやることにも野球のルールにも何の疑いもありません。

 

そういう場面で橋下さんは意図的にサッカーをやっていたのです。

 

これが私がいう他流試合の意味です。一方が野球をやっていて一方がサッカーをしている状況でどちらかが勝ったであるとか負けたであるとかいう判断をすることは不可能ですしそれは「試合」として成立していないのです。

 

だから私は「これは見る必要がない」と感じていたので観ていないのです。

 

橋下さんが「学者が嫌い」でした。

 

私は説明紹介家として今の日本の言論状況の複雑怪奇さに挑むのですよ。もはや虚数方程式にまで至っているようでもありますし「その議論を読んだり聴いたりするとそれなりの筋が通っているようには思えます。だけれどもそもそもその議論には有効性があるのでしょうか。私にはその議論の出発点さえ出発点にするにふさわしいポイントであるとは思えないのでその議論そのものを無効だと考えます」というとても面倒なことを私は考えていたりするのです。

 

言い方は難しいのですが橋下さんはテレビでのパフォーマンスがとてもうまいひとでした。

 

橋下さんの議論めいたこと(という書き方を私がするのは橋下さんはそもそも議論をする気がなく別のルールの何かをしていたと考えているからですが)をするときにはパターンがありました。私はそれを1,2回見て覚えました。

 

橋下さんの専門分野について相手に「これを知ってるか」と聞くのです。それは言ってみれば些末なことで議論の本筋ではないことです。そして「これを知らないあなたはダメなんだ」というのです。また議論であれば「話して聞く」「聞いて話す」の繰り返しなのですが橋下さんは相手が話しているのにその話と重ねて自分の話をしていたのです。

 

別にこれは橋下徹批判ではありません。

 

ただ橋下さんの議論めいたことはそういうことでしかなかったので私は見る必要がないとしか思えなかったのです。

 

二回目ですが野球をひとがしているのにそこで唐突にサッカーを始めるひとがいたとしてどちらより有効だったのかなどという判断をつけるのは不可能ですし橋下さんの議論めいたことを観たり聞いたりしてもその内容から私が何かを学んだりする要素は極めて少ないと感じていたから観る必要がないと感じていました。

 

私は説明紹介家として面倒くさいことを(今となっては好んで)しています。

 

論破ということではありません。世間に流通している「考え」のようなものを解きほぐして場合によっては「その考えはそもそも存在する価値がないとしか思えません」という失礼極まりないことをいうのです。

 

私がしていることは場合によっては「相手の考えの否定」ですらありません。「あなたの考えは存在する必要性がない」と断じてしまうのですから。

 

「あなたの考えは間違っています」というのであれば「相手の考えの否定」ですが「あなたの考えはそもそも存在する必要がないと私は考えます」と断じてしまうのでこれは「相手の考えを無効化」していることになるのです。

 

私の考えに共感するひとがどの程度いるのか不明ですが「その考え議論ってそもそも存在する必要があるのですか。私にはないとしか思えません」というのが私がいう「相手の考え議論の無効化」です。

 

私は現代世界中に「無効化」した方が良い考えが山のようにあると考えているのです。

 

そして「私はその無効でしかない議論に参加するような愚かなことをするつもりはない」のです。

 

と「考え」「議論」の「無効化」の後に付け加えるのです。

 

宮崎哲弥もそうしたら。あんたの議論の相手はたいていバカでしかないよ。

だから私には友達がいない 世の中は灰色だから

 

 

本当に私は日本語は総ルビにして欲しいのですがこの本は笠原嘉(かさはらよしみ)さんと加賀乙彦さんが書かかれた本です。

 

私は「先生のおっしゃることはその通りだと思います。だけれども私にはどうしてもそう思えないのです。先生私を説得してください」と思いながら何度となく読んだ本です。

 

この本の中にこういう内容がありました。(これは私の記憶の中の言葉で正確な引用ではありません)

 

「君たちね現実を捕まえて「白」とか「黒」とか思いたがるし考えたがるでしょう。だから君たちは苦しむし場合によっては病気になるんだよ。冷静に現実をみてごらんなさい。現実は灰色でしょ。君たちは灰色の現実を捕まえて「白」とか「黒」とか言っているでしょ」という内容です。

 

当時私は若かったし案の定「白」とか「黒」とか思いたがっていたし考えたがっていたのです。そして「なるほど現実は灰色だ」ということはわかるのですが「どうしても「白だ」とか「黒だ」とか思いたがって苦しんでいた」のです。

 

世の中はそんなに「簡単」であるはずがないのですが日本中で二者択一を要求されています。

 

「核推進」と「核廃絶

「護憲」と「改憲

 

この二つの事例だけを問題にしても「そんなに簡単な問題であるはずがない」のです。

 

今(2017年)の今でいうと「保守」と「リベラル」とか。

 

「そんな簡単に済む問題であるはずもない」のです。

 

私は「嫌われるのが怖い」の影響を強く受けています。

 

そうなるとどうなるのでしょうか。

 

今私の中でたいていの問題は「灰色」になっているのです。

 

「核は推進派でもあるし廃絶派でもある」し「護憲派でもあるし改憲派でもある」し「保守でもあるしリベラルでもある」のです。

 

だけれども世間は「お前はどっちなんだ」という(私にとって)無茶な要求を私にしてきてその(私にとって無茶な)要求をし続けているのです。

 

世間のたいていはほとんどどちらかに所属しています。

 

そういう現状では私には友達ができないし私には友達はいないのです。

 

日本人は精神分裂病だから あなたの日本人なら「自分は精神分裂病なのだ」ということは押さえていてください

精神疾患にだけつかう言葉なのでしょうが「病識」という言葉があります。「自分で自分は病気なんだという認識を持つこと」が病識です。

 

今の日本人には「自分が精神分裂病なのだ」という病識がないのです。

 

精神分裂病は治療可能は病気です。

 

私自身精神を病み自分が精神分裂病なのだ」ということを知った時にはさそど驚きませんでしたがいろいろな本を漁って打ちのめされたのを覚えています。

 

当時は精神分裂病は治らないのが定説だったのです。私は「自分は精神分裂病なのだと自己診断したのは二十歳」なのです。

 

「自分の人生には何もないのか」と思って打ちのめされたのです。

 

ところが森山公夫さんの本を知り呼んで私は驚きも喜びをしたのです。

 

統合失調症―精神分裂病を解く (ちくま新書)

統合失調症―精神分裂病を解く (ちくま新書)

 

 この本には精神分裂病統合失調症という風に名前が変わったのは精神分裂病という病名があまりに差別的だという理由だけではなく「精神分裂病統合失調症)でも治る」という学説の変更があったのだというのです。

 

私が長く「政治には近づきたくない」と思っていたことには理由がありますしそれが故に私には友達がいません。

 

精神分裂病は人格がいわば分裂している状態です。

 

日本の戦後だけに限定しても

 

Aという人格は「南京大虐殺従軍慰安婦問題をおおごとにしたがっている」としか私にはずっと思えない(考えられない感じられない)でいたし今も私はそう思って(考えて感じて)います。

 

Aという人格は「革新」とかつて名乗っていて今は「リベラル」と名乗っています。

 

Bという人格は「南京大虐殺従軍慰安婦問題をなかったことしたがっていたし今もしたがっている」としか(同じく)私には思えない(考えられないし感じられない)のです。

 

両者は(表面上)「対立しています」。場合によっては「憎しみあっている」と言ってもいいと私は見ています。

 

ただAという人格とBという人格は本来同じ人格が分裂したもので根っこは同じものだと私は見ているのです。

 

そして両者と両者の対立を私は冷めて見続けているのです。

 

この両者はある時期以降「保守」と「リベラル」に名前を変えて憎しみあっていますが。

 

私は国会中継をみません。必要な時には国会議事録を読みます。

 

その理由は「あまりに感情的」だからです。

 

あの異常に感情的であることが私には一つの人格が分裂して憎しみ合っている様子に思えてとても不愉快なのです。

 

あなたも私も日本人であれば当然精神分裂病です。

 

すくなくとのその「病識」をもっているのが良識というものでしょう。

2020年東京オリンピックの最適解 日本東京以外オリッピック

私は東京オリンピックには賛成でも反対でもありません。私は次の東京オリンピックのようなイベントを待っていました。

 

トヨタ自動車は2007年に本社機能の一部を名古屋駅の前にあるミッドランドスクエア内の一部に移しました。

 

今の日本企業で調子が良い企業はほとんど本社は関西です。

 

もともと東京に本社がある企業が東京にあるのは当然のことです。

 

ですがある時期の日本では「ひと・もの・かね」を東京に集中させました。そしてそれが成功を収めてきたのです。

 

しかしそういう時代(東京一極集中)の時代は終わったのです。

 

大きな潮目が変わる時には多くのひとが「潮目が変わった(このケースでいえば東京一極集中が終わった)こと」に気づきません。

 

あなたも気がついていないと思います。

 

たとえばバブル崩壊は1991年です。バブル崩壊の象徴としてテレビ局が放送する映像はジュリアナ東京の浮かれ騒ぎです。しかしジュリアナ東京の浮かれ騒ぎは1992年から1993年のこと(つまりバブル崩壊後)なのです。

 

つまり「バブル崩壊にほとんどの日本人は気がついていなかった(あるいは知ってはいたが大事だとは思っていなかった)のです。

 

2016年にはこういう本が出ています。 

 内容はタイトルの通りです。「あなたが東京にいる必要はあるのですか」という趣旨の本です。

 

私の「感覚」ではもう「東京一極集中」は終わっています。

 

ですから「東京一極集中は終わった」ということに日本中が気が付くような出来事をさがしていたのです。

 

東京オリンピックが決定したのも私には唐突でした。東京都がオリンピックの招致運動をしていることを私は知らなかったのです。

 

でも(そのカタチは不明ですが)2020年の東京オリンッピクを経験して日本人の多くは「東京一極集中は終わったんだ」と気がつくと私は思って(考えて感じて)います。

 

そういう意味で東京オリンピックのようなイベントを私はまっていたのです。

 

そして私が考える2020年の東京オリンピックの最適解は「日本東京都以外オリンピックにすることです。

 

メインスタジアムは横浜(つまり神奈川県)でいいでしょう。

 

日本の夏はとても暑いのでマラソンは当然北海道で行います。札幌で良いでしょう。札幌でマラソンを行うのであればプロ野球に協力してもらって陸上競技は札幌ドームで行うと整合性が取れます。

 

日本各地にドームもあれば競技場もあるのでそういった場所を活用して各競技種目を行います。

 

そして「東京都」ではなにもしません。

 

つまり2020年の東京オリンピックの最適解は「日本東京以外オリンピック」です。

 

日本の場合は国土面積も広いですし地方空港や新幹線もあるのでアスリートや取材陣の移動も簡単です。

 

しかも当然お金も安くあがります。

 

そして世界に向けて「もはらオリンピックの規模のイベントは一都市で行う時代ではなく国や地域で行う時期に入った」というプレゼンテーションをするのです。

 

2020年の東京オリンピックの最適解は「日本東京以外オリンピック」だとしか私には思え(考え感じ)られません。

 

あなたも2020年の東京オリンピックの最適解は「日本東京以外オリンピック」でしかないと思いませんか?

ある種の占い・心理学は二分法です。「おしゃべりとか無口とか」

血液型では人間を4種類に分けます。星座占いでは12種類に分けます。

 

「人間のような複雑な存在をそんな4種類とか12種類に分けて済むはずがないだろう」というあなたの考えはもっともです。

 

ですがある種の占い・心理学はもっと単純です。「2種類に分けてすます」からです。

 

「明るいひとだとか暗いひとだ」とか「おしゃべりなひとだとか無口なひとだ」とかで済ますのがある種の占い師・心理学者の仕事なのです。

 

そういう意味でいうと私は心理学者の端くれです。

 

上沼・高田のクギズケ!」という上沼恵美子さんと高田純二さんの番組をみていて「ここではこの二分法だな」と先日思っていました。

 

バカな二分法なのですが「世話焼きタイプ」と「世話焼かれタイプ」の二分法なのです。

 

私は「世話焼きタイプの男」で同じく「世話焼きタイプの男」の話を聞いてバカにして笑うし私の話を聞いた「世話焼きタイプの男」からも笑われます。

 

私は最近まで頭痛もちでメガネをかけると余計に頭が痛くなるような気がするので普段裸眼ですごしていました。

 

ある日友人が部屋に遊びにきて「この部屋は不潔だ」という対応をしたのでイヤな思いをしたのですが私は普段近眼で裸眼なので部屋のホコリやちょっとした汚れが見えない状況です。

 

「世話焼かれタイプのひと」はいわば近眼の裸眼で過ごしているようなものです。

 

私がその頃普段メガネをかけていたらそんな部屋に友達を入れることはありません。

 

気がついていなかったからそういう状況の部屋に友達を入れたのです。

 

「世話焼きタイプのひと」はいわば「目がいい」のです。「世話焼きタイプのひと」はいわば「目がわるい」のだと考えてみてください。

 

あなたはどっちでしょうか。

 

私は「世話焼きタイプの男」なのですが「世話焼きタイプのひと」にはスキがないのです。まったく付け入るスキがありません。

 

もしスキがあるのならいいます。

 

「別にオカネとかそういうことはいないけど」とか「ありがとうとかそういうことじゃないんだけれども」と。

 

でもスキがまったくないので言えないのです。

 

結果私は友人の縁を切ってしまったことが数回あります。

 

それまでにいろんなことがたまっていたからです。

 

そもそも「世話焼きタイプのひと」には多分どうでもいいことを私は燃え尽きるくらいにしていて「もう限界だと思って縁を切っている」のです。

 

さっきの例だと私は部屋が汚い状態で友達を招くことなど基本しません。ただ当時裸眼だったのでそうしてしまっただけです。でも「世話焼きタイプのひと」は普通にそういう状態でも友人知人を招くはずです。

 

あるいは「そんな恰好で外に出ちゃダメだって」というカッコウでそとに出るはずです。

 

そもそも(たぶん)「世話焼かれタイプのひとにはどうでもいいこと」を「世話焼かれタイプのひと」が必死でしているようなのです。

 

ある女友達は妹さんにとても感謝しています。「妹がナンにもいわないでやってくれる」と。

 

彼女は事実妹さんに感謝しています。

 

でも妹さんにすると「言いだすとお姉ちゃんにもう会えなくなるくらいのことを私は言いかねない」と思うから「何にもいわない」のだと私は考えているのです。

 

そしておそらくあたっていると思うのです。

 

こういう二分法を山のように自分の中にもっていて「このひとにはこの二分法」「このケースはこの二分法」というように自分の中から「取り出せるひと」がある種の占い師であり心理学者なのです。

 

ここはまだAIにはできない領域なのではないでしょうか。

 

事実多くの仕事がなくなるとは私も考えています。

 

ただ私のような仕事は当面なくならないでしょ。

 

何故私にこんなことができるのかって?

 

修行したからですよ。

松居一代さんについての報道について思う

私は今は本は一冊出していますがしょせん無名ブロガーです。

 

「勉強しましょう」とかいうとイヤミでしかないので普段私がいうことはないのですが日本企業は本当に勉強した方がいいとしか言えません。

 

たとえばトイレです。TOTOにしてもINAXにしても「マーケッティング」に関する部署があるはずですが機能していません。

 

これは「マーケッティング以前の問題」のような気もするのですが。

 

私は一人暮らしなのですが自宅のトイレで小用を足すときに「座って」用を足しているのです。

 

理由があなたにはわかると思います。

 

今のトイレで男がたって小用を足すとトイレを汚してしまうのでからです。

 

私は一人モノですしトイレ掃除も自分でするので座って用を足すというとても面倒なことをしています。

 

それから女性でトイレの音が気になるという理由で用を足しているときに水を流すひとがいます。

 

前にいた職場で男がたって用を出していると用を足す音が聞こえて私はとても不愉快な思いをしています。

 

ある時私はあるフレーズを呟いて自分で笑ったことがあります。今更自分がそんな言葉を呟いていたことに笑ったのですがそのフレーズとは「顧客のニーズ」です。

TOTOINAXも「顧客のニーズ」を何十年も無視しつづけています。TOTOINAXもナニをしているのでしょうか。

 

これは「マーケッティング以前の問題だ」と私にいわれてもいたしかたないでしょう。

 

伊丹十三さんに関してあの方がご存命の時にはそんなに興味はなかったのですが他界された後になって「よくあの仕事をしてくれた」と時々思うのです。

 

たとえば若いひとで「バブルの頃はよかったんでしょ」というひとには「マルサの女2」を勧めるのです。日本人が銭の亡者になっていた様子の記録として重要なのです。

 

 

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伊丹さんはいわゆる「店」で働いた経験はないはずなのによくわかると思うのが「たんぽぽ」です。ラーメン店の立て直しの物語なのですが

 

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山崎努さん演じる主人公が宮本信子さん演じるはやらないラーメン屋の女主人を助ける物語です。

二人で人気のラーメン店に行って食べ物して帰る場面があるのです。山崎勉さん演じるできる男は「この店の店員たちにはムダな動きが多い」というのです。

店で働いているひとにはぜひ観てほしい映画なのですが私が客で言って「それムダだ」と思うとイラっとします。ある店でオバチャンが大声で話しているのです。良い悪いではなくてそれは「ムダな大声」なのです。全員に伝える必要がある業務連絡なら大声を出す必要がありますがどうでもいいこともそのオバチャンは大声を出しているのです。

ムダなんですよ

 

それからこの言葉も今更いうのも恥ずかしい言葉なのですが「時代はロングテール」です。

 

私がとても尊敬しているポジ熊さんという方のアドバイスを私は基本守っています。

 

これは「時代がロングテール」だから成立するアドバイスです。

 

そのアドバイスとは「腐るワードは使わない方がいいですよ」というものです。

 

松居さん御本人の問題について私は言及するつもりはありません。

 

マスコミのありかたを問題にしているのです。

 

メディアがデジタルに移行してコンテンツ(番組や記事の内容)は長く持つようになっているのです。

 

私は見ませんが「ワイドショー」も一回作って終わりという時代ではありません。一回の放送で10年20年商売をする時代なのです。

 

でもある種のマスコミは「腐るワード」で埋め尽くされています。

 

松居さんもバカにする意味でこれ書くワケではありません。

 

松居一代」というワードは「腐るワード」に他ならないのです。

 

私は細々とコラムを出版したりしています。増刷もあり得ないのですが一応リンクを張っておきます。

 

世の中と私

世の中と私

 

 

全コラムニストが思って(考えて感じて)いることなのですがコラムの出版はコラムニストにとっては苦しいことです。

 

「あのときはそう考えていたのだけれどももう考えが変わっているだが時代の空気を残すという意味がコラムの出版にはあるのでテニオハはなおしても趣旨を治すとコラムをまとめて出版する意味がないから趣旨は治せないから」です。

 

テレビや雑誌のスタッフや出演者も「今はそういう気持ち」が必要なのです。

 

繰り返しますが「時代がロングテールだから」です。

 

商売の勉強をちょっとはしましょうか。

 

(私は今そうとうカッカしていました。そうとう私はこういう件で怒っているみたいです)

ドラッカーがいう「スぺシャリトであって同時にジェネラリストであるひと」って例えばこういうことです。

私も含めて多くのひとが一番疲れることは「考えること」です。お金とか手間とかではありません。「考えること一番疲れること」なのです。

 

ドラッカーはこれから必要な人材として「スぺシャリトであって同時にジェネラリストであるひと」と定義しています。

 

スペシャリストはある種「自己完結脳」です。

 

ある仕事を前にして彼(彼女)は考えるのです。

 

「コレってココから初めてコーやってするとコレがコーなるから。違うか。コッチからやるとコレがコーなるからコーするんだ」

 

と仕事を前にして「強力に考える」のです。

 

スペシャリストは有能です。ただ彼や彼女は自分に脳内の思考を動きをひとに伝えることはキホンしません。

 

スペシャリストにとってそれは「無駄なこと」です。

 

たとえば「一回教える」「一回やってみせる」ことで充分だとスペシャリストは考えています。

 

「見て仕事を盗め」というのも基本同じことです。

 

実際私はある店でフレンチトーストの焼き方を覚えたのですが「見て盗んだ」のです。

 

そのフレンチトーストを食べたことはありません。ただおいしそうだったのです。

 

だからママさんがしていたことを家でああでもないこうでもないとやってみて「出来るようになった」のです。

 

私自身スペシャリストでもあるので一頃よく思って(考えて感じて)いました。

 

「頼むからオレを疲れさせないで」と。

 

スペシャリストは「自分が仕事の前にあるいは仕事中に『考えていること』だけで強力に疲れている」のです。

 

だから「見て盗め」と言ってしまいます。

 

一方ジェネラリストの「脳」は違うのです。

 

ある店で店長兼エリアマネージャーをやっていたひとに対してDKのバイト君が「あの店長はパソコン仕事が好きで」と愚痴っていました。

 

そのひとはエリアマネージャーでもあるので「あの店の売り上げがこうで。人件費がこうで。あそこパートさん辞めたし」と必死で考えていたのです。

 

実際その店長の気晴らしは「皿洗い」でした。飲食店のシンクは二つ並んでいることが多いのです。

 

最初のシンクでだいたいの汚れを落として二つ目のシンクで油汚れを取って仕上げるのです。

 

ということは皿洗いは二人でもできます。

 

その店長はMさんと言ったのですがバイト君と「皿洗い競争しよう」と言ってドッチが早いかを競って時々遊んでいたのです。

 

Mさんはジェネラリストの仕事で疲れて「皿洗い競争」をして気晴らしをしていました。

 

落語にある話があります。

 

そのひとは植木職人の親方なのです。

 

そのひとはキセルをくゆらせてボーっと庭をみています。そしていうのです。

 

「私がこうやってると遊んでるとしか思えないでしょ。でも私がこうやっている時が一番働いている時なんです」と。

 

その親方はやはり仕事を前にして「強力に考えている」のです。

 

その親方は「庭の全体像」を当然考えています。「あそこをああすると。それだとあそこでバランスが悪くなるか。じゃあここをこうして。それでもなんかバランス悪いよね。じゃあこうして。そうするとアイツにはこれが任せられるな。アイツの助手には誰が良いのかな」と。

 

日本語で「段取り八分」といいます。

 

ジェネラリストはいわば「段取るひと」です。スペシャリストは「ある仕事をうまくやるひと」なのです。

 

その植木職人の親方は一見遊んでいるようなのですがその親方が現場に入ってこまごましたことをしてはダメです。いわばスポーツチームの監督をしているのですから。

 

スぺシャリトであって同時にジェネラリストというのはいわば「プレイングマネージャー」なのです。

 

ある種の有能なひとは「いざとなったら自分でやる」と思っています。

 

偉すぎて文句がいえないことが問題なのですが森英恵さんは戦略家です。

 

日本人のデザイナーがパリで相手にされないだろうと踏んでいたのです。だからファッションの中では地位が落ちるほかの都市でまずコレクションを成功させてパリに進出しています。

 

さらに「パリの針子さんが私をバカにするようなら自分で縫う」と決めていました。

 

万人にとって共通なものは一つだけでそれは「時間」です。

 

マネージメントが仕事のひとがこまごましたことをしたり口を出したりするのは「時間のムダ」です。

 

「スぺシャリトであって同時にジェネラリストであるひと」はタイムマネジメントがとてもうまいのです。

 

そしてある種の「人間関係方程式」を解くのもうまいのです。

 

あの仕事は「デザイン」なんだけど「デザイナーに任せるとその程度にしか行かないよね。イラストレイターとITの専門家の組み合わせなら面白くなるかな」と考えつくのです。

 

仕事をする時に「チームを組む」のですが「あのひとはアレが得意でこのひとはコレが得意でこれは苦手」という組み合わせを作るのがとてもうまいのです。

 

そして自分もある分野のスペシャリストなのです。

 

ほぼ日刊イトイ新聞が良い例です。