世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

前園真聖さん!東野幸治さん!「あんたらの困り芸にイライラすんだけど」 ワイドナショーを観て

僕は基本テレビを観ないのですが今日「ワイドナショー」を観ました。そして「これってもはや芸だ」と思ったのです。

 

日本語は本当に総ルビにして欲しいのです。僕の名まえも読めないの名前なのでペンネールを使っているのですが前園真聖(まえぞのまさきよ)さんの名まえも読みづらいです。

 

あの方が余計なことばっかりいっていてそこが大好きなのですが森喜朗さんです。日本の総理まで務められた森さんの名まえが僕は長年読めませんでした。「モリキロウとは読まないよね。でもこれってナンテ読むんだろう」と思っていたのです。そしてある時に「モリヨシロウ」と読むことを知ったのです。

 

本題ではないのですがオジキこと須田慎一郎さんがラジオを言っているのを聴いて「そうなんだ」と思ったのですが森さんは原因不明でとにかく現東京都知事小池百合子さんが大嫌いらしいのです。

 

そういうことってあるじゃないですか。「原因はわからないのだけれどもなんだかこのひとが大嫌いなんだけれども」ということです。

 

そういう事で森喜朗さんが小池百合子さんの悪口を言っていたらしいのです。

 

森さんが余計なことばっかりいうでしょ。あの「余計なことばっかりいう感じ」が僕は大好きなのです。「神の国」とか本当に余計なことですし浅田真央選手に「あの子が大事な時に転ぶ」とか本当に余計なことですよ。でも「余計なことをいう感じ」が僕は大好きなのです。

 

これも本当に余計なことなのですが森喜朗さんみたいなひとを政界に出すために「小選挙区はやめて中選挙区に戻してほしい」と僕はずっと思っています。

 

あれはもやは「芸」だと思うのですが前園真聖さんも東野幸治さんもテレビでしょっちゅう困っています。

 

東野幸治さんはまだわかるのですが前園真聖(まえぞのまさきよ)さんは仕事は一体ななですか。スポーツジャーナリスト?タレント?サッカー解説者?元日本代表のキャプテなのですが。一流アスリートなのですが。

 

今日「ワイドナショー」を観てて僕はイラっとしました。東野幸治さんが「皆の意見がそろったということで」という発言をしていたのです。「どうなるかと思って困ってたんだけどなんとかなってよかった」という趣旨です。

 

前園真聖さんもしょっちゅう困っているんですよ。

 

東野さんにしても前園さんにしても今となっては「困ってナンボ」だとか僕には思えないのです。

 

全知識あるひとは確実に思っています。「自分の知識が自分でウザイ」と。僕もそうです。

 

僕は熊本のひとなのですが今日前園さんが熊本のプロバスケットボールチームのリポートをしていました。

 

ワイドナショー」で熊本のプロバスケットボールチーム「熊本ヴォルターズ」のリポートしていたと僕は今日まで知りませんでしたしウィキるまで前園さんが男子バスケットボールリーグ「Bリーグ」特命広報部長をやっていることもしりませんでしたが。

 

熊本ヴォルターズは熊本で正直盛り上がっていません。理由は簡単です。熊本では地上波でヴォルターズの放送がされていないからです。MBS毎日放送)が親会社らしいのですがGAORA(ガオラ)というCSと契約しないとヴォルターズの試合を見ることが出来ないからです。BSフジはプロバスケットボールをやっているようなのですがCSを契約する人は一部ですしましてスカパー以外のCSを契約するひとはごく一部です。

 

僕も今ウィキってGAORA(ガオラ)なるものが存在することを初めて知りました。

 

確かに客は入っているように見えます。でもそれは「体育館」だからです。プロスポーツとしては「観客は1万人」くらいは望まれるのですが今の観客動員はそんなレベルには至っていません。ハコが小さいから人気があるように見えるだけです。

 

もちろん僕はヴォルターズを応援していますが試合結果が地元にいても良くわからないですし。盛り上がりにかけているのです。

 

選手がダメだとか運営がダメだとはそんな風にはまったく思いません。ただ事実ヴォルターズは熊本で「盛り上がりにかけている」のです。地元のケーブルテレビでヴォルターズの選手が出る番組はあるのですが僕は地元にいるのですがヴォルターズの試合を会場でもテレビでも見たことがないのです。そして試合結果もよくわからない状況だから「盛り上がりにかけている」と書いています。

 

そういうリポートを前園さんはしてくれないのです。

 

あるいはこれは今ウィキって知ったのですがNBAには人数のワクが決まっているために独立プロバスケットボールリーグは10以上あるらしいのです。

 

このことをラジオで僕は知って「それはコロンブスの卵だった」と思ったのですがバスケットボールというと「背が高いひとがするものだ」と僕は長年信じ込んでいました。でも今のNBAで得点王を取るかもしれないといわれているアイザイア・トーマスの身長が何センチだと思いますか。175cmなのです。

 

これはバレーボールならこうはいきません。でもバスケットボールならありうるのです。

 

バレーは「サーブ権」の問題はありますが基本得点は1点です。

 

しかしバスケットには複数の得点があります。これは「バスケットのルールと用語の紹介サイト」からのコピペです。

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得点の種類
バスケットのリングをボールが上から通過すれば得点になります。得点はゴールと呼び、3種類あります。
スリーポイントラインの外側からのゴールは3点、スリーポイントラインの内側からのゴールは2点、フリースローでのゴールは1点になります。

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ダンクシュートはスゴイです。背が低い僕には憧れです。しかしそれがダンクであったとして2点です。しかしスリーポイントラインの外から打てば3点です。

 

だから戦略として「とにかく外からスリーポイントを狙う」という戦略はありうるしそれゆえにアイザイア・トーマスのように身長が175cmの選手が得点王になる可能性が出てきているのです。

 

僕はスポーツはまったく門外漢です。しかしこの程度の知識はあります。

 

この事を前園さんはまったく言ってくれないんのです。別に前園さんじゃなくて東野さんでもいいのです。

 

僕がテレビを基本観ないのは「イライラ」するからなのです。僕程度の知識もないひとが「語っている」からです。

 

僕が今書いて来たことって前園さんか東野さんがいうのが筋の事柄だと僕は思うのです。

 

これも本当に余計なことですがフィギュアスケートに「トリプルアクセル」」ってありますよね。「三回転半ジャンプ」です。

 

伊藤みどりさんも浅田真央さんも「トリプルアクセル」で有名でしたよね。

 

羽生結弦さんの「王子様キャラ」も興味深いと僕は思っています。僕も当然東洋人です。ある時期までの「王子様」といえば基本「白人」だったはずです。でも今は僕は東洋人だからではないと思うのですが東洋人が「王子様キャラ」で誰も疑問を抱かないと思うのです。一回は苦労したほうが良いと思っていたやはり「王子様キャラ」の石川遼さんもはいあがってくるのでしょう。

 

僕は余計な話ばかりをして本題にたどり着けないのですが僕が勝手に「ピラミッドの法則」と呼んでいるものがあります。

 

「高いピラミッドを作るためにはどうすればよいのでしょうか」。答えは簡単です。底辺を広く取ればよいのです。そうすれば頂点は上がります。

 

Jリーグ発足時に「大丈夫か」と心配する声があったのですが僕は「大丈夫だ」と思っていました。理由は簡単です中学高校で野球部とサッカー部がとても偉そうにしていたのを覚えていたからです。つまり野球もサッカーも「底辺が広い」のです。

 

日本は学校スポーツが中心です。ラグビーが来ていることは確かです。しかし中学高校に普通にラグビー部があるでしょうか。僕の記憶ではラグビー部はそんなにはないです。つまり「底辺がそんなに広くない」という理由でラグビーの「頂点が上がりづらい」と僕は考えています。もちろん「五郎丸さん」はすばらしいです。だけれども「ラグビーを盛り上げたかったら中学高校のラグビー部の絶対数を増やすのが筋です」。そうすると「底辺が広がるので頂点が上がる」のです。

 

テニスやゴルフや水泳は個人競技ですし「クラブ」で選手が育つことが多いようです。昔は「子供がゴルフをするなんて贅沢だ」「テニスなんて」「スイミングクラブに行くのはお金持ちの子」という感覚がありましたが今は違いますよね。その「底辺の広がり」が頂点を上げているという僕の仮説が「ピラミッドの法則」です。

 

やっとトリプルアクセルに話が戻るのですが同じスケートでも「スピードスケート」と「フィギアスケート」では違いすぎて「スピードスケート」の選手が「フィギアスケート」のスケート靴を履くと歩けないという話(これはそうとう曖昧なのですよ)を聞いたことがあります。

 

当然スピードスケートは「前に向かって滑ります」。当然ですよね。でもフィギアスケートの選手がスピードをのせようと思う時は(僕がテレビで観るかぎり)「後ろに向かって滑っている」としか思えません。

 

「生理」として前に向かって飛ぶのは怖いと僕は思うのです。フィギアスケートの選手はジャンプの前に方向を変えることが普通です。後ろに向けてすべってスピードをのせて前に向き直って後ろムキに降りるのが僕がテレビで観て「そうなんだろうな」と思っているトリプルアクセルなのですが誰もそういうことをわかりやすく解説してくれないのです。

 

前に向かって飛んで後ろ向きに降りるから「三回転半ジャンプ」だと思うのです。もちろんウィキればわかりますがもう疲れているのウィキりませんしこういう基本的な事柄の解説はテレビでやって欲しいのですが今まで僕はきいたことがないのです。

 

友人とちょっと勉強をしていてその友人は「そういうことは勉強するひとがやることだ」と言っていたのですが僕は不親切なテキストだなと今でも思っています。

 

テレビを「情報源だ」というひとが昔はいたのですが「ネットがどうこう」という問題ではなく今のテレビから得られる「情報量が落ちています」。

 

実際お昼の情報番組を病院で定期健診の時に眺めていてある種「感動した」ことがあります。その日のその「情報番組」の「情報がゼロ」だったからです。「情報ゼロでも情報番組が成立すんだ」と思ってある種「感動した」のです。

 

やっと話が戻ってきたのですが前園真聖さん!東野幸治さん!あなたがたがすぐ「困る」のはもはや「芸」といえるレベルに到達しているとは思います。超おもしろいです。でも「困ってるだけ」といえばそうともいえるんですよ。

 

ネタは取材をすれば拾えるんですよ。自分が取材が苦手だと思えばスタッフを使うんですよ。

 

テレビパーソンに聞きたいのですが「困り芸」っていつからテレビにあるんですか。

 

前園さんも東野さんも僕はファンですよ。だけど「あんたらの困り芸にイライラもしています」よ!(というお二人への応援のメッセージを休日に時間を使って無意味に描いていることがファンの証でしょ。)

マクドナルド報道で思うこと 目先のPVが欲しいんですか 「短期すぎると僕は思いますよ」

僕でも「このワードを使うとPVが増えるし検索でもヒットするんだけれどもそれって下品だからそのワードは使わない」と思って書いていることがあります。僕はロングテールを狙うので先輩ブロガーから「腐るワードはやめて置いた方がいい」というアドバイスもいただいていますし。

 

とか「ニッチ(隙間)は売上が小さいからニッチ(隙間)なんでニッチ(隙間)はやめ解けば」というアドバイスをもらったこともあります。

 

マクドナルドってビッグワードです。マクドナルドについて記事を書くと注目度が上がるのは僕にもわかります。

 

でもここ何年かでマクドナルドに関して

「外食産業はマクドナルドの一人勝ち」だとか

マクドナルドはどうにもならない」だとか

マクドナルドが復活してきた」だとか

という記事が普通に出ています。

 

マクドナルドの一人勝ちだ」と普通に書いてあった時期に僕もとても違和感がありました。マクドナルドの一人勝ちなのであれば「吉野家」がつぶれていたはずです。「リンガーハット」も「ケンタッキー・フライド・チキン」も「やよい軒」もつぶれていたはずなのです。

 

でも当然そんなことがあるはずがありません。

 

僕はしょせん無名のブロガーにしかすぎませんがたとえばトランプさんについては基本書いていません。トランプさんは僕からみてもツッコミどころ満載なのです。僕が政治経済外交に関する十分な素養があるのならば書いても良いと思うのです。でも「枝葉末節」というコトバが指し示すように物事には本筋とどうでも良いことが混在しています。

 

トランプさんってどうでも良いことを書こうと思えばいくらでも書けるのです。僕はしょせん無名ブロガーです。でも僕の「良識」がそれを許さないのです。

 

変な言い方ですが「プロのマスコミ」が目先のPVを欲しがっているとしか僕には思えません。

 

僕が「ファンの恐ろしさ」を自分がある方々のファンなので感じたことが二回あります。

 

一回は「クローズアップ現代」の国分裕子さんに関してです。僕はファンとして国分さんにクローズアップ現代をずっとやっていてほしかったのです。でも当然国分さんにも私生活がおありになるしクローズアップ現代の最終回を観て「本当にご苦労様でした。一ファンとしてクローズアップ現代を観ることが出来てしあわせでした。あとは自由にされてください」と思いました。

 

同じく女性なのですが堤未果さんに私はあるタイミングで本を出してほしかったのです。堤さんの本は気軽に出せるようなものではないことはわかっていたのです。だけれども「堤さんの私生活なんかしったことではありません。あなたはひたすら本をかけばいいのです」とか恐ろしいことを僕は考えていたのです。

 

 

 

政府はもう嘘をつけない (角川新書)
 

 

一ファンとして堤未果の著作を多くのひとに読んで欲しいので堤さんの本のリンクを張っておきますが。

 

僕は無名ブロガーだとしても「書くことの大変さ」はある程度わかっているのです。なのにそう思っている自分が恐ろしかったのです。

 

クローズアップ現代にしても堤未果さんの著作にしても一過性の話題を取り上げて視聴率を稼ぐとか本を売るとかそういうことの真逆にある存在だと僕は思うのです。

 

マスコミって「その時話題になっている物事をとりあげる」のはもちろんそうです。

 

僕はもういわゆるワイドショーを観ることはありません。その時の話題は北朝鮮でした。朝なんとなくNHKの朝ドラを観てそのままテレビをつけていたことがあったのです。なんとなくザッピングして驚きました。どの局も「北朝鮮ばかり」だったのです。しかも僕の低い見識からしても「とても浅い掘り」です。

 

それは構造上そうしかなりません。ほぼまったく知らない状況である事件がおきてその事を話題にして別の事件が起きたら同じことを繰り返しているのですから。

 

僕は一応ドラッカーがいう「スペシャリストであって同時にジェネラリストであるひと」です。

 

だから「シフトが組めないんだ」とは思います。例えばディレクターに余計な時間を与えて「普段の報道はして暇な時は好きことを追いかけてね」というシフトを組んでも良いし「この事件をやろうと思うと3年はいるし結果15分のワクしかやれないけどこれだけ3年やっていいよ。本にしなよ。印税は会社がもらうけどね」とかいうシフトを組んでもいいはずです。

 

無名ブロガーでも「このワードはキャッチーすぎるからやめておこう」と思って遠慮する場合があるのに「プロマスコミが目先のPVをおいかけて」どうするのですか。

 

もちろん私企業だから視聴率や売り上げは必要です。

 

だけれども私企業であろうとも国であろうとも「目標設定」は三種類です。

 

「短期目標」「中期目標」「長期目標」です。

 

現場にそれをやれ!とはいいませんが上の方が「中期目標」や「長期目標」を考えているとはとうてい僕には思えないのです。

 

「プロマスコミ」の皆さん僕も下品なのですが僕より下品だなと正直軽蔑していますよ。

「うらみ」を解け!上野千鶴子

うらみ」に基づいた言動はワケがわからなくなります。

 

以下の部分はネット上で情報が錯そうしていて確認が取れなかったのですが上野千鶴子が同性愛者を差別する発言をしているらしいのです。

 

私は理屈っぽいひとなので論理的な反論は可能です。

 

ひとやモノを差別する合理的根拠がある」と上野は考えているということになります。何らかの「合理的根拠」があるから同性愛者LGBTを彼女は差別すると発言しているのでしょう。

 

だとすれば「上野千鶴子女性差別を認める」ということになります。

 

合理的根拠なんていくらでも「発見する」ことも「つくる」ことも可能ですから。

 

たとえば「ある年齢の女性には生理がある」から「上野千鶴子は女性を差別する」こともあります。あるいは「女性は一般に男性よりも力がない」から「上野千鶴子は女性は差別する」こともあるのです。

 

私は「ひとやモノを差別する合理的根拠は存在しない」と考えるものです。

 

あるいは(ここはそうとう信憑性が高いのですが)上野は自分の考えを通すために「無意味にひとを傷つけて」います。だから「上野千鶴子を無意味に殴ってもかまわない」のです。カノジョ自身が無意味にひとを傷つけて構わないと考えているのですから上野千鶴子自身も「無意味にひとから傷つけられて構わない」のです。

 

それとこれは呉智英さんが昔テキストメディアで討論されていた時に今のコトバでいうと「意味がわからない」というようなことを書いていらしたのです。討論の相手が呉さんのことを「マゾコンのなんとか」とかいう個人的中傷をしていたと僕は記憶しています。呉さんは「議論の内容とマザコンのなんとかという個人的中傷とか無関係なのだけれども」と書いていらしたのです。

 

上野って(たぶんですよ)「こういう言い方をするとより深くひとを傷つけることが出来るよね」という極めて卑しい発想をもっていて議論の内容とは無関係な中傷のコトバを探すようなやつです。そういう卑しさは本当に勘弁して欲しいと僕は思います。

 

だいたいそれって「暴力行為」でしかないのですし。つまり上野は「暴力賛成」です。彼女自身が「この言い方の方がより深くひとを卑しめたり傷つけたりイヤな思いをさせたりするよね」という言葉や言い回しを探すような卑しいひとだからです。

 

「暴力」の一つのカタチは「殺人」です。つまり「上野は殺人賛成」です。あるいは暴力が極端にでる場面は「戦争」です。つまり「上野は戦争賛成」なのです。自分が暴力をふるうだけふるっておいて「戦争という暴力行為を否定する資格」なの彼女にはありませんから。

 

私も含めて上野みたいはならないようにしましょうね。

 

ただ上野の言動のワケのわからなさの原因はただ一つです。

 

うらみ」です。

 

(そこまで知りませんし興味もありませんが)「ワタシおとうさんが憎いの」という「うらみ」です。

 

「うらみ」というものはこのようにひとは「イビツ」にしてしまうのです。

 

上野にも「うらむ」だけの理由があったのでしょう。

 

でも「うらみを解けるのは本人だけ」なのです。

 

あのひともいい年でしょ。自分の中に「うらみ」があることくらいはわかっておくのが「良識」というものでしょう。

 

上野、あんたはいい年してあまりにコドモだ。

 

余計なことを書いておくてそれが「保守」だろうと「リベラル」だろうと「政治家」だろうと「マスコミ」だろうと「このひとワケわかんないよね」と思うと「このひとには(個人的な)『うらみ』があるんだ」と思った方がいいです。そういうひとにまともな反論なんか通用しません。そういうひとにとって重要なのは論理的整合であるとか「良識」などではなくただただ「うらみ」だけです。ネット民が悪いとかいうけどいくらでもそういうひとたちがいます。

LGBTから考える パラダイム(思考の枠組み)

ちょっと辞書から引用します。新明解国語辞典第二版と学研現代新国語辞典改訂第四版からです。

 

昼 1、一日のうち、太陽の出ている間。朝から夕方までの間(大義語 夜)2、正午(前後の時間)3、昼飯 (新明解国語辞典第二版より)

 

昼1、日の出から日没までの明るい間 (対義語 夜)2、朝の夕方にはさまれた日の高い間。日中 3、正午 4ひるごはん、お昼(学研現代新国語辞典改訂第四版より)

 

夜 一日のうち、太陽が沈んでいる間。日の入りから日の出までの間。(対義語 昼)

新明解国語辞典第二版より)

 

夜 日没から日の出までの間。太陽がしずんでいるくらい間 (大義語 昼) (学研現代新国語辞典改訂第四版より)

 

虹があります。虹の映像をコピペしておきます。NAVERまとめよりです。

 

matome.naver.jp

 

虹は7色だといいます。でも実際に虹の映像をみてみると7色とは必ずしもいえないことがわかります。

 

これは内田樹さんが書いていらっしゃったのですが、人間も自然界もアナログ(連続的でどこからどこまでがどうだと明確にいうことができないもの)です。しかし人間が認識する際には「これは白だ」とか「これは赤だ」という風なデジタルにしないと自分がまず認識できないし、ひととも共有することができないのです。

 

LGBTに「あなたは男ですか、女ですか」という素朴な質問もありうるのです。

 

LGBTにしても「男か女か」であるとかいうデジタルな思考の枠組みが大前提になっています。

 

LGBTの問題は敏感な方は1980年代から考えられています。これは人権上どうであるということではなく、「思考の枠組みそのものに問題があるのではないか」という問題があったことを意味しています。そして今もその問題があるのです。

 

日常生活の中で人を紹介するときに「肩書き」をつけて紹介します。「彼は大学生なんですよ」であるとか「営業やってるひとです」とかです。「肩書きがない状態」はほぼ存在しません。

 

一面識もありませんしもう他界されていますが、あの方は私の先輩なのでしょう。池田晶子さんです。池田さんの本を人に紹介するときに私はちょっと悩みます。一般的には「哲学エッセイの名手」といわれていました。ある時期以降割り切って「哲学者の池田晶子さん」と私は言っています。

 

「肩書き」はデジタルなのです。私が池田さんの本を人に紹介するときに悩むのは、(これは誰もがそうなのですが)池田さんが「多面的」だからです。

 

LGBTだとしても「学生」だったり「無職」だったり「会社員」だったりします。誰もが多面的なのです。

 

物の見方もそうです。「あいつはイヤなやつ」だとか「汚い建物だ」とか「美しい風景だ」とかあったとしても「イヤなやつ」ではない部分をそのひとは当然持っています。「汚い建物」にもきれいなところは当然あります。また「美しい風景」にも醜い部分は当然あります。

 

マイノリティの問題がフィーチャーされているのは「思考の枠組み」自体に問題があるのではないかという問題意識があればこそのことです。

 

今の会社員には副業が認められていることが多いです。「副業」とは言います。しかしそれも仕事です。その人の「職業名称は何なのでしょうか」。副業をしていれば100%会社員ではありません。でも会社員と名乗るはずです。そう名乗らざるを得ない場合が多いはずです。

 

最初に昼と夜の語釈を引用しました。「日の出」や「日の入り」の時間は「昼」なのでしょうか、それとも「夜」なのでしょうか。答えられないと思います。「昼か夜か」という思考の枠組みが前提になっていると「日の出」や「日の入り」はなんなのかが見えてこないのです。

 

私がマイノティの問題は人権の問題ではないと書いたのはそういうことなのです。「思考の枠組みに問題があるのではないか」という意味があるということです。

 

思考の枠組みを一般的にはパラダイムといいます。人間にはどうしても「思考の枠組みが必要」なのです。そして「思考の枠組みは時代ととも変えていく必要がある」のです。

 

LGBTの問題をただのマイノティの問題だととらえるのはあまりも一面的すぎのです。

 

「思考の枠組み」を疑う時代なのだという風に考えるのが筋です。

 

あまりにも「当たり前すぎる思考の枠組み」を疑わないと世の中で起きていることが読み解けないですし、これからの時代を考えてゆくこともできない時代が今だということを指摘してこの文を終えます。

 

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草間彌生さんの自伝から考えるフロイト あるいはマドンナ

草間彌生さんは現代アートのすごいひとです。ちょっと興味があって自伝を今読んでいます。

 

草間さんのある時期のオブジェに無数の男根を集めたものがあります。そういう表現をするので「性的なひと」のような評価もあるようです。でも草間さんが戦争を経験したということもあると想像しているのですが、草間さんは「男性的なもの」に嫌悪感を持っています。それゆえのそういうオブジェなのです。

 

「男根が自分の中に入ってくると思うってイヤでしょうない」ひとだったのである種の自己セラピーという意味があったらしいのです。

 

マドンナも性的です。PVにしてもコンサートにしても。でも彼女の歌で「パパドンプリーチ」(お父さんお説教しないで)というものがあります。

 

彼女も性的な葛藤があるひとなのかもしれません。

 

フロイト先生が「アイツはなんでも性と結びつける」という評価を受けているのですが。たとえばフロイト先生は「3」に注目します。男性器は陰茎とインノウをあわせると「3個」です。フランス国旗の3色は男性器のシンボルだというのです。

 

私には正直意味が分からなかったのですが、そういうことはありうるのかもしれません。

 

私の仮説では男は身体をもっていません。もし男に身体があるとすれば性器だけなのです。

 

フェミニン(女性的でめめしい)ことが現代日本では強い意味をもちうるのかもしれないという唐突な結論でこの文を終えます。

 

トランプさんはそういうのがキライなんでしょうが。

デボラ・チェンバース 「友情化する社会」 について

チェンバースの「友情化する社会」を流し読みしました。「男の友情」にたいする考察がとても興味深かったのです。

 

私の周囲でも「働く男」には普通「友達がいません」。「友達」の定義も問題ではありません。ただ「普通に働いている男」には「友達がいない」のが普通です。

 

昔から定年を迎えて今までもらっていた名刺をどうして良いのかわからないであるとかそれまでまでお歳暮とかお中元をもらっていたのに何もなくなってしまったという話があります。

 

しかも男同士での「優劣」があるという指摘もあります。「劣った男だとは思われない」という意識が男にあると指摘しています。

 

そういう流れでLGBTの問題にも挑んでいます。経験的に分かるのですがゲイでなくてもなんとなくナヨっとした男は男の仲間でどこかさげすまれます。

 

チェンバース先生の本から勝手な引用をして申し訳ないのですが。

 

「男の友情は排他的だ」という指摘もあります。

 

誰かを仲間外れにするカタチで友情を成立させると言うのです。

 

以前にいとうせいこうさんがラジオでおっしゃっていたのですが韓国の方から「徴兵制は辞めた方がいい」と言われたことがあるらしいのです。徴兵から帰って来た男性がどこか女性をさげすむようになると言うのです。

 

これは半ば笑い話ですが、私は小学校高学年の時に母親とつまらないことで喧嘩しました。私服の話です。私服のシャツの裾を私は出したかったのですが母親は入れろと言ったのです。結果私はシャツの裾を出したのですが。

 

これも半ば笑い話ですが私は母親からただ名前を呼ばれていましたが、母親が子供のかわいいあだ名をつけている場合があります。「タックン」とかです。ある種の男性はある年齢の時に「オレはタックンじゃないよね」と思う場合があります。でも母親の中では「タックン」でしかないのです。女友達が息子さんの第二次反抗期で悩みも疲れもしていました。正直息子さんがキライになるくらいの反抗期だったのです。友人として、その話を聞いてつらかったのですが、その経験を経て彼女は「あの子はかわいいあの子じゃないのね」と彼女は納得出来たようです。彼女の苦しみもそうとうだったことは事実です。でもその経験を経て彼女と彼女の息子さんとの新しい関係が成立したと今は考えています。

 

これはある種の映画のパターンのセリフです。軍人さんもので若い兵隊さんに「お前はお袋が怖いのか」と鬼軍曹が怒鳴るというセリフがあったのです。

 

「女は生まれた時から女だが男は男になる」という言い方があります。確かにそういう要素は男にあるのでしょう。

 

実際援助色の友人は「母子分離」が課題です。

 

「男が男になる存在」だと認めたとしても「男になるプロセスでなんらかの存在を排除してしまう可能性がある」と私は考えています。

 

LGBTの問題は1980年代にはもう注目されていました。

 

わざと刺激的な表現をするのですが「男という病理」が存在するのかもしれません。

 

「男」なる存在は「病理」として存在している可能性があるのです。

経験上分かっていますが 「文句をいうひとはしないひと」

私は出来るひとではありません。でも「するひと」です。この文章を読んでいる人にも「するひと」がいますよね。苦しいでしょ。「しないひと」が多数います。経験上分かっていますが「しないひとは文句をいうひと」です。

 

こっちは「する」のです。彼らは「しない」で「文句を死ぬほど言う」のです。

 

不満があるのはわかります。でも私は長年「している」のです。「しないひと」から「死ぬほど文句を言われながら」です。

 

これが苦しいのです。

 

わかりはします。「するひと」は「文句をいう前に何かするひと」です。だから「文句をいう暇がありません」が。でも「文句を言うひと」は「文句を言ったこと」でひどく満足されているのです。結果「文句を言うだけで何もしなく」なります。

 

私は長年そういう「文句を死ぬほどいわれながらしてきた」です。私はほぼボッチでいるのはそういうことに疲れているからなのです。

 

あなたもそうでしょう。「文句をいうひとは何もしないで文句だけいってご満悦です」よね。私が「する」ことに不満はあるのでしょう。でもああいうひとは「しない」で「文句だけをいう」のでコッチはつらいのです。

 

「満足感」みたいなものなのでしょう。「文句を言うと満足できる」ような心理状態があるようです。

 

だから私みたいに「する」ひとが「しない」ひとから「死ぬほど文句をいわれながら」苦しんでいるのです。もうそういうはいらないと思っていますが。私は完璧に飽きていますし、そういうのに疲れました。もう「文句だけ言ってしないひと」とのお付き合いは遠慮します。もうそういうのはいいです。コッチもつらいし。