世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

LGBTから考える パラダイム(思考の枠組み)

ちょっと辞書から引用します。新明解国語辞典第二版と学研現代新国語辞典改訂第四版からです。

 

昼 1、一日のうち、太陽の出ている間。朝から夕方までの間(大義語 夜)2、正午(前後の時間)3、昼飯 (新明解国語辞典第二版より)

 

昼1、日の出から日没までの明るい間 (対義語 夜)2、朝の夕方にはさまれた日の高い間。日中 3、正午 4ひるごはん、お昼(学研現代新国語辞典改訂第四版より)

 

夜 一日のうち、太陽が沈んでいる間。日の入りから日の出までの間。(対義語 昼)

新明解国語辞典第二版より)

 

夜 日没から日の出までの間。太陽がしずんでいるくらい間 (大義語 昼) (学研現代新国語辞典改訂第四版より)

 

虹があります。虹の映像をコピペしておきます。NAVERまとめよりです。

 

matome.naver.jp

 

虹は7色だといいます。でも実際に虹の映像をみてみると7色とは必ずしもいえないことがわかります。

 

これは内田樹さんが書いていらっしゃったのですが、人間も自然界もアナログ(連続的でどこからどこまでがどうだと明確にいうことができないもの)です。しかし人間が認識する際には「これは白だ」とか「これは赤だ」という風なデジタルにしないと自分がまず認識できないし、ひととも共有することができないのです。

 

LGBTに「あなたは男ですか、女ですか」という素朴な質問もありうるのです。

 

LGBTにしても「男か女か」であるとかいうデジタルな思考の枠組みが大前提になっています。

 

LGBTの問題は敏感な方は1980年代から考えられています。これは人権上どうであるということではなく、「思考の枠組みそのものに問題があるのではないか」という問題があったことを意味しています。そして今もその問題があるのです。

 

日常生活の中で人を紹介するときに「肩書き」をつけて紹介します。「彼は大学生なんですよ」であるとか「営業やってるひとです」とかです。「肩書きがない状態」はほぼ存在しません。

 

一面識もありませんしもう他界されていますが、あの方は私の先輩なのでしょう。池田晶子さんです。池田さんの本を人に紹介するときに私はちょっと悩みます。一般的には「哲学エッセイの名手」といわれていました。ある時期以降割り切って「哲学者の池田晶子さん」と私は言っています。

 

「肩書き」はデジタルなのです。私が池田さんの本を人に紹介するときに悩むのは、(これは誰もがそうなのですが)池田さんが「多面的」だからです。

 

LGBTだとしても「学生」だったり「無職」だったり「会社員」だったりします。誰もが多面的なのです。

 

物の見方もそうです。「あいつはイヤなやつ」だとか「汚い建物だ」とか「美しい風景だ」とかあったとしても「イヤなやつ」ではない部分をそのひとは当然持っています。「汚い建物」にもきれいなところは当然あります。また「美しい風景」にも醜い部分は当然あります。

 

マイノリティの問題がフィーチャーされているのは「思考の枠組み」自体に問題があるのではないかという問題意識があればこそのことです。

 

今の会社員には副業が認められていることが多いです。「副業」とは言います。しかしそれも仕事です。その人の「職業名称は何なのでしょうか」。副業をしていれば100%会社員ではありません。でも会社員と名乗るはずです。そう名乗らざるを得ない場合が多いはずです。

 

最初に昼と夜の語釈を引用しました。「日の出」や「日の入り」の時間は「昼」なのでしょうか、それとも「夜」なのでしょうか。答えられないと思います。「昼か夜か」という思考の枠組みが前提になっていると「日の出」や「日の入り」はなんなのかが見えてこないのです。

 

私がマイノティの問題は人権の問題ではないと書いたのはそういうことなのです。「思考の枠組みに問題があるのではないか」という意味があるということです。

 

思考の枠組みを一般的にはパラダイムといいます。人間にはどうしても「思考の枠組みが必要」なのです。そして「思考の枠組みは時代ととも変えていく必要がある」のです。

 

LGBTの問題をただのマイノティの問題だととらえるのはあまりも一面的すぎのです。

 

「思考の枠組み」を疑う時代なのだという風に考えるのが筋です。

 

あまりにも「当たり前すぎる思考の枠組み」を疑わないと世の中で起きていることが読み解けないですし、これからの時代を考えてゆくこともできない時代が今だということを指摘してこの文を終えます。

 

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草間彌生さんの自伝から考えるフロイト あるいはマドンナ

草間彌生さんは現代アートのすごいひとです。ちょっと興味があって自伝を今読んでいます。

 

草間さんのある時期のオブジェに無数の男根を集めたものがあります。そういう表現をするので「性的なひと」のような評価もあるようです。でも草間さんが戦争を経験したということもあると想像しているのですが、草間さんは「男性的なもの」に嫌悪感を持っています。それゆえのそういうオブジェなのです。

 

「男根が自分の中に入ってくると思うってイヤでしょうない」ひとだったのである種の自己セラピーという意味があったらしいのです。

 

マドンナも性的です。PVにしてもコンサートにしても。でも彼女の歌で「パパドンプリーチ」(お父さんお説教しないで)というものがあります。

 

彼女も性的な葛藤があるひとなのかもしれません。

 

フロイト先生が「アイツはなんでも性と結びつける」という評価を受けているのですが。たとえばフロイト先生は「3」に注目します。男性器は陰茎とインノウをあわせると「3個」です。フランス国旗の3色は男性器のシンボルだというのです。

 

私には正直意味が分からなかったのですが、そういうことはありうるのかもしれません。

 

私の仮説では男は身体をもっていません。もし男に身体があるとすれば性器だけなのです。

 

フェミニン(女性的でめめしい)ことが現代日本では強い意味をもちうるのかもしれないという唐突な結論でこの文を終えます。

 

トランプさんはそういうのがキライなんでしょうが。

デボラ・チェンバース 「友情化する社会」 について

チェンバースの「友情化する社会」を流し読みしました。「男の友情」にたいする考察がとても興味深かったのです。

 

私の周囲でも「働く男」には普通「友達がいません」。「友達」の定義も問題ではありません。ただ「普通に働いている男」には「友達がいない」のが普通です。

 

昔から定年を迎えて今までもらっていた名刺をどうして良いのかわからないであるとかそれまでまでお歳暮とかお中元をもらっていたのに何もなくなってしまったという話があります。

 

しかも男同士での「優劣」があるという指摘もあります。「劣った男だとは思われない」という意識が男にあると指摘しています。

 

そういう流れでLGBTの問題にも挑んでいます。経験的に分かるのですがゲイでなくてもなんとなくナヨっとした男は男の仲間でどこかさげすまれます。

 

チェンバース先生の本から勝手な引用をして申し訳ないのですが。

 

「男の友情は排他的だ」という指摘もあります。

 

誰かを仲間外れにするカタチで友情を成立させると言うのです。

 

以前にいとうせいこうさんがラジオでおっしゃっていたのですが韓国の方から「徴兵制は辞めた方がいい」と言われたことがあるらしいのです。徴兵から帰って来た男性がどこか女性をさげすむようになると言うのです。

 

これは半ば笑い話ですが、私は小学校高学年の時に母親とつまらないことで喧嘩しました。私服の話です。私服のシャツの裾を私は出したかったのですが母親は入れろと言ったのです。結果私はシャツの裾を出したのですが。

 

これも半ば笑い話ですが私は母親からただ名前を呼ばれていましたが、母親が子供のかわいいあだ名をつけている場合があります。「タックン」とかです。ある種の男性はある年齢の時に「オレはタックンじゃないよね」と思う場合があります。でも母親の中では「タックン」でしかないのです。女友達が息子さんの第二次反抗期で悩みも疲れもしていました。正直息子さんがキライになるくらいの反抗期だったのです。友人として、その話を聞いてつらかったのですが、その経験を経て彼女は「あの子はかわいいあの子じゃないのね」と彼女は納得出来たようです。彼女の苦しみもそうとうだったことは事実です。でもその経験を経て彼女と彼女の息子さんとの新しい関係が成立したと今は考えています。

 

これはある種の映画のパターンのセリフです。軍人さんもので若い兵隊さんに「お前はお袋が怖いのか」と鬼軍曹が怒鳴るというセリフがあったのです。

 

「女は生まれた時から女だが男は男になる」という言い方があります。確かにそういう要素は男にあるのでしょう。

 

実際援助色の友人は「母子分離」が課題です。

 

「男が男になる存在」だと認めたとしても「男になるプロセスでなんらかの存在を排除してしまう可能性がある」と私は考えています。

 

LGBTの問題は1980年代にはもう注目されていました。

 

わざと刺激的な表現をするのですが「男という病理」が存在するのかもしれません。

 

「男」なる存在は「病理」として存在している可能性があるのです。

経験上分かっていますが 「文句をいうひとはしないひと」

私は出来るひとではありません。でも「するひと」です。この文章を読んでいる人にも「するひと」がいますよね。苦しいでしょ。「しないひと」が多数います。経験上分かっていますが「しないひとは文句をいうひと」です。

 

こっちは「する」のです。彼らは「しない」で「文句を死ぬほど言う」のです。

 

不満があるのはわかります。でも私は長年「している」のです。「しないひと」から「死ぬほど文句を言われながら」です。

 

これが苦しいのです。

 

わかりはします。「するひと」は「文句をいう前に何かするひと」です。だから「文句をいう暇がありません」が。でも「文句を言うひと」は「文句を言ったこと」でひどく満足されているのです。結果「文句を言うだけで何もしなく」なります。

 

私は長年そういう「文句を死ぬほどいわれながらしてきた」です。私はほぼボッチでいるのはそういうことに疲れているからなのです。

 

あなたもそうでしょう。「文句をいうひとは何もしないで文句だけいってご満悦です」よね。私が「する」ことに不満はあるのでしょう。でもああいうひとは「しない」で「文句だけをいう」のでコッチはつらいのです。

 

「満足感」みたいなものなのでしょう。「文句を言うと満足できる」ような心理状態があるようです。

 

だから私みたいに「する」ひとが「しない」ひとから「死ぬほど文句をいわれながら」苦しんでいるのです。もうそういうはいらないと思っていますが。私は完璧に飽きていますし、そういうのに疲れました。もう「文句だけ言ってしないひと」とのお付き合いは遠慮します。もうそういうのはいいです。コッチもつらいし。

 

世間はすごいです 「業務放棄(給料ドロボー)」は普通ですから

私はろくなキャリアがありません。でもそれなりには働いてきました。「それなり程度」でしかありませんが。

 

どこかに「良い仕事」があって「ちゃんとしたひとがちゃんとした仕事をしている」と考えていたのです。

 

でも色々な所で見聞きする「仕事の話」を聴いて驚くことが多々あります。

 

ある職場で親子で働いているらしいのですが親子喧嘩してお母さんが帰るという話を(お子さんが社長なのですが)笑いながら話していました。そしてその職場の人のグチを私は聞いているのです。

 

その人のグチはその人が本当に体調が悪くなったので中抜けして病院に行って仕事に戻った時のことです。そのお母さんがタイムカードを押してその時間の給料が出ないようにしていたというのです。

 

そのお母さんは体調が悪いわけではなく単なる親子喧嘩で仕事をほっぽり出して普通に帰っているひとですよ。

 

そのひとが本当に体調が悪くなって中抜けして病院に行った彼のタイムカードを勝手に押して、その時間の給料を引くのです。これヒドイでしょう。

 

イヤなのでそこには行かないようにしていたのですが、ある所にいってある女性に仕事を振ったのです。「立場」があるではないですか。正直行って彼女レベルの仕事は私にもできます。でもそれは彼女の職務上しなければならない仕事ですし私がするのは筋が違う仕事なのです。

 

彼女は普通にしません。普通にしないんです。「出来る」、「出来ない」ではありません。「しない」んです。それを私がするのも筋が違うので色々私は大変だったのですが。

 

あるひとがいて、そのひとに迷惑をしていました。(男性なのですが)彼は私の仕事の邪魔をするのです。大企業に「追い出し部屋」なるものがあるらしく大問題なのですが。

 

その人に何かをいう立場の人に私は一瞬文句を言って笑いました。「あの人何とかしてよ」と言ったのですが。すぐに「無理だ。あの人はどうにもならないよ」と言って笑ったのです。

 

私は普通に働きたいだけだったのですが、人の仕事の邪魔をして給料をもらっているひとがいました。苦しかったですよ。

 

そういうことがあるからそこには近づきたくなかったのです。

 

昔からそうなのかどうか不明なのですが、給料ドロボーが日本には普通山のようにいるようです。別に仕事ができなくてもまったく構いません。人の仕事の邪魔はしないで欲しいですし、出来る出来ない以前に「仕事をしない」のは辞めて欲しいのですが。

二次情報の重要性と問題点

私は二次情報でいろいろ勉強します。それは報道でもフィクションでもそうです。ジャーナリストであったとしても自分の専門領域以外については二次情報で勉強しているはずです。ただ今の日本は二次情報が変なカタチで流通していて私は不愉快です。

 

前にトランプさんの演説全文の日本語訳つきを紹介しました。トランプさんがあれだけ話題になっているのにトランプさんの言動を二次情報でしか知らないと考えています。

 

それも浅い二次情報です。

 

その薄い二次情報だけを元にして「ああだ、こうだ」いっているテレビ番組が死ぬほどあります。偏りは良いです。

 

でも薄い二次情報しかこの人たちは知らないんだとしか思えないひとがテレビで「ああだ、こうだ」いっているのです。当然私は見もしませんが。

 

街角や職場で言うのなら構わないと思うのです。それは世間話ですから。その世間話程度の話題をテレビをしています。辞めて欲しいのですが。それをある種の「責任ある発言」になるのです。

 

当然「録画」されているはずですし。

 

そういう日本語はないのかもしれませんが「発言責任」があるのです。

 

政治家の方がわかりやすいでしょう。パブリックコメントという考え方があります。そういう方がどういうひとなのかしりませんが、テレビでの発言はパブリックコメントに準ずるものです。

 

そういう人たちは深く考えずに言っているのでしょうが、ああいう発言はパブリック米とに準ずるコメントです。

 

政治家の方が失言で辞職しています。ああいう発言をしているひとも「みずからの仕事を失う」ということが多いにありうるということを踏まえてください。

 

違う立場の方がああいう無責任なひとを追求しても構わないとも私は考えています。あの人達は追求されて当然の無責任極まりないことを普通にお金をもらってしているのですから。私もそういう話はしますがカメラも録音機材も回っていない場所でしていますし、お金ももらっていませんから。ああいう人たちとは違います。

偏りは当然ありますが「知識」はあって欲しいのですが

報道にも情報にも当然偏りがあります。それは当然です。そこを私は問題にしません。内容(コンテンツ)の質を私は問題にします。内容が薄い報道や情報があまりにも多いです。場合によっては高校生レベルの知識すらないひとが報道をしている場合もある気がします。

 

そういうことがあるので民放のニュースはみません。

 

ある「ニュース番組」でのことです。当時は暑い時期でした。私はその取材の意味がまったくわからなかったのですが、河川敷で暮しているホームレスの方を取材しているのです。しかも前には雪が降っている時期に取材していたようです。過去のVTRが放送されていましたから。

 

貧困問題は今の日本の社会問題で貧困問題に携わっている方は多数いらっしゃいます。ホームレス状態にあるひとになんらか障害がある場合が多いのではないかと指摘もあります。

 

それ以前に日本人には「基本的人権」が認められています。

 

日本人であればホームレスになる必要はありません。日本人には基本的人権がありますから。

 

その取材クルーもその番組スタッフも私には知識に多いに問題があるとしか思えませんでした。

 

ジャーナリストと取材対象との関係性は難しいでしょう。それは認めます。

 

しかし貧困問題は今の日本の抱えている大問題です。そのことをその番組関係者が知らないとしか私には思えませんでした。たとえばホームレスのひとを貧困問題のスペシャリストにつなぐという企画が私には普通だと思えます。その番組はホームレスの人たちをほったらかしにして二回も取材しています。

 

あるいは日本人が基本的人権をもっているという知識もないとしか思えませんでした。

 

テレビが日本人から見放されて私は当然だと思っています。