世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

「発言」より「発言教唆」の罪が重いはずですが

今出先なのですがお昼の情報番組をやっています。私はこの内容に疑問を持っています。養老先生はNHKのニュースに批判的です。NHKは「中立公正」をうたっているからです。ある種の偏りがない報道などそもそも存在しえないからです。

 

今なんとなく流れている情報番組にも当然偏りはあります。偏りは別に構わないのです。ただ内容が薄いとしか私には思えません。「コメント」をするひとがいます。中村うさぎさんがテレビをコメンテーターを辞めました。理由はいろいろあるのでしょうが、ある領域に対する知識がないままにコメントをすることにいらだちがあったということも原因の一つだと考えています。

 

昔「イカスバンド天国」という番組がありました。当時は雑誌文化が存在し、ある雑誌に大学生にイカ天の審査員の悪口を言われる企画でした。そこでの大学生の発言は当時の私から見ても「的外れ」なものだったのです。簡単な理由です。彼らには知識ななかったのです。

 

あるはユーチューブでみたのですが外国人の方に言いたい放題言わせる企画があったようです。そこでの発言が「基本的人権に抵触するレベル」でした。BPOは何のためにあるのだろうと私は思い不愉快でした。

 

私もオヤジなので分かるのですがオヤジは責任を取るのがキライです。

 

曽野綾子さんのアパルトヘイト発言がありました。こんな罪はないのですが、あれを「発言罪」だとします。発言罪なるものがあるとすれば「発言教唆罪」がありえます。

 

ある犯罪を犯したひとよりも、その発言を「教唆」した人の罪が重いというのは刑法上のある種の共通了解です。

 

曽野さんの発言も問題だなとは思いました。しかしあの発言後も曽野さんは相変わらずの発言を続けておいでです。

 

私は確信しているのですがオヤジ連中が気がついたのです。「曽野綾子に好きな事をか書かせても悪く言われるのはオレたちじゃなくて曽野綾子だ」と。

 

ということは「確信犯」です。曽野さんの蔭に隠れているオヤジ連中は「確信犯」で「発言教唆」を続けています。

 

刑法上の考えに基づけば曽野さんよりも曽野さんに好きなことを書かせているオヤジ連中の罪の方が重いのです。

 

曽野さんに隠れている皆さんはそういうことが分かっていますか。刑法とかが日本にはあるのですよ。雑誌社にもテレビ局にもいくらでもそういうひとがいるようです。

 

あなたがたの卑怯さズルサは目に余るものです。プライドなど大昔に捨てた皆さんなのでしょうが私は深く軽蔑させていただきます。

「現場」と「現場以外」の遊離 

これが日本をダメにしているのだろうと私は考えています。「現場と現場以外の遊離」です。

 

私が長年黙って罵倒されてきたのは「現場」の気持ちも分かるし、「現場以外」以外の気持ちも分かるからです。

 

「現場のひと」は「上は現場がわかってない!」と怒ります。

 

「現場以外のひと」は「現場はなにやってるんだ!」と怒るのです。

 

具体例をあげますが、ある「現場」に私はいました。ちょっと気になることがあったので「これで良いですよね」と現場全員に了承を取りました。その件が上には気に食わなかったのです。

 

だから私は黙って怒られていました。

 

あなたは言いかえせば良いではないかと思ったのかもしれません。しかし上はその「事情」がまったくわかっていないのです。

 

だから黙って怒られるほかなかったのです。

 

逆もあります。

 

「あのひとはパソコン仕事が好きだから」とあるひとが悪口を言われていました。「アイツは現場からすぐ離れる」という悪口です。でもそのひとは立場上各地の売上の動向等を調査してなんらかを対応を取る仕事をする必要があったのです。

 

トヨタの「改善」があるます。あれは現場の問題点を解決していく方法のはずです。

 

私も色々な「現場のひと」に(それは店だったりオフィスだったりするのですが)いえません。「上に上げといてください」とは。私自身も「上にあげられない時期」が長かったのです。

 

たとえば「業務時間外」に「A4に10.5ポイントで300枚の現場の問題点リポート」を書いても良いかなと思ったこともあります。

 

それをやめば普通は仕事熱心なはずですが。

 

そういうリポートを書いてもまず読んでもらえないとしか思えなかったですし、読んでもらっても邪魔者扱いなんだろうなと思うと書けませんでした。

 

私には何が悪いのは不明ですが、「現場」と「現場以外」がお互いに「悪口」を言っている状況が日本社会で何十年も続いているのですが。これを何とかしましょう。

男の悪口、女の悪口

私は普通に料理ができます。普通レベルです。ある持ち込み可のカラオケボックスでの集まりに弁当を持って行きました。外で食べれば一人あたり1200円くらいの弁当です。男ばかりだったのですが普通に「美味しい」と言って彼らは食べていました。

 

熊本地震で被災して、ちょっとあそばなくてはと思ってやはり持ち込み可のカラオケボックスに行った時にも弁当をつくりました。仕出し屋さんでとれば二万位の内容でした。彼らは普通に「おいしい」と言って食べていました。

 

近所に良い魚屋さんがあって男性の友人と行ったところハマチがやすかったのでハマチシャブをしようと男性の友人に行ったところ私が前に作ったアレも作ってくれ、コレも作ってくれといわれたのです。

 

その事情を別に友人に行ったところ「ツチモトさんはひとが良すぎますよ。それはお金を取らなきゃ」と言うのです。彼がいうのもごもっともです。そのハマチを三枚におろしてサシミ状にするのも私ですし、タレをつくるのも私ですし、シメのご飯も私の米ですしご飯を炊くのも私ですし材料を買うのも私なのです。

 

でもある種の男性はそういうのが「普通だ」とあまりにも思っているのでお金を取るとかそういうことがしずらいですし、だからといって何かを要求するのも気がひけるのです。

 

これが男の悪口です。

 

女の悪口なのですが、女性は「関係性」を「普通」に言います。ある女性と料理の話をしていた時に彼女は「友達に県の料理人のトップがいるの」と言うのです。私はそのひとのことを知りませんし、そういうことを彼女が言う意味もわかりません。

 

ある種の女は「偉いひとと友達だ」とか「立派なひとと友達なの」とかいうのです。そのひとの友達は「偉い」のでしょうし「立派」なのでしょう。しかし彼女たちは「偉く」もありませんし「立派」でもありません。

 

女の「誰かとの友達自慢」は辞めて欲しいのですが。

 

男もなんでもかんでもひとにさせといて「普通」だと思うのは辞めてください。

 

私には両方「意味がわかりません」。

枕草子の現代性~私の自慢話です

読書力があるひとは若いころから本が読めるようです。私がそうでした。私が勝手に「教科書問題」と呼んでいることがあります。私がいう「教科書問題」とは重要な存在を教科書に載せるのかどうかという問題です。私がある時に家庭教師をしていた時に高校生の生徒さんに言ったことがあるのです。彼の高校の教科書には漱石の小説が長々と掲載されていました。私はこう言ったのです。「漱石を教科書に載せるのはよくないと思うんだよね」。

 

私は漱石がそこそこ好きです。だからコソの発言です。多くのひとにとって「教科書に掲載されているなにか=つまらないもの」です。たとえばビートルズのイエスタデーが私の世代では中学の教科書に載っていたのです。そういう有りようが漱石ビートルズはつまらないと思わせていまう構造があります。

 

それが私がいう「教科書問題」です。

 

ただ高校時代に教科書で枕草子を読みました。そういう私が何故国文学を専攻しなかったのか不明なのですが、清少納言に高校時代の私はとても親近感を覚えたのです。

 

私には枕草子の「構造」が見えていたのです。清少納言の描写力は天才としか呼べないものです。今読んでもなんとなくわかるのです。ただ私が言う「構造」です。彼女の結論は二つしかありません。天才でしかない描写をした後に「をかし」と書くか「わろし」を書くかだけのひとです。

 

その「をかし」と「わろし」が私にはわからなかったのです。ピンとこなかったと言うべきなのかもしれません。「をかし」にも「わろし」にも古語辞典を引けば語釈があります。その語釈にピンとくるものがありませんでした。

 

今ウィキったら1987年の新聞の書評に出ているようなので1987年に出版されたようです。

 

私は若者言葉や新語にいつも注目しています。基本批判はしません。理由は私が昔若者だったからです。たとえば最近若いひとが「やばい」とか「やばっ」とよく言います。私は良い表現だと思っています。あれは「危険なくらいに美味しい」とか「危険が感じるくらいに良い映画だ」という意味で、とても論理的なのです。

 

1980年代に女性達の言葉が世間でひんしゅくを買っていました。その言葉は「かわいい」です。(昔ですよ)「最近の女はなんでもかんでもかわいいですませる」という批判があったのです。

 

そして1987年(らしいのですが)橋本治さんが当時の女子高生言葉で枕草子を訳したのです。

 

これも思えば私の天才性だと思うのですが長年読んでいなかったのです。そして勝手に清少納言の「をかし」と「わろし」を当時の若者言葉に現代語訳していました。

 

「をかし」は「かわいい」と、

 

「わろし」は「ださい」と

 

現代語訳していたのです。

 

そして「そうなんだ。清少納言って天才的な描写をした後に、『こういうのってかわいい』、『これって超かわいい』、『これってダサッ』、『ダサくてイヤ』としか言わないんだ。今っぽいな】と思っていました。

 

こう橋本さんが訳したと長年信じていたのです。

 

でも橋本治さんは「素敵ね」と訳していて、後になってそれを読んで私は驚きました。「あの翻訳は自分がしてたんだ」と思ったのです。

 

1980年代だったら「をかしはかわいい」だったでしょうし、「わろしはださい」でしかなかったはずです。

 

ただ気がつけば私も私の周囲も「素敵だな」とか「素敵な」とかしょっちゅう言っています。

 

橋本さんは早かったのでしょう。でも私もやるでしょ。

 

きゃりーぱみゅぱみゅは「かわいいの伝道師」です。日本の「かわいい文化」はとても強いです。当然です。千年の伝統ですから。強いはずです。

 

でもね、本当にこういうひとが国文学科に進まなかったのはなぜですね。

 

政府主導なのでしょうか、「クールジャパン」をやっています。クールジャパンは英語です。あれは「かわいい日本」か「すてき日本」の方が適切でしょう。

メリルストリープのトランプさん批判について ジャーナリトちゃんとしましょう

ユーチューブのURLを張っておきます。

youtu.be

 

 

メリルストリープさんがトランプさんを批判したという「だけ」の報道がなされました。それ「だけ」の報道です。本当にそれ「だけ」でした。私はうんざりしました。それ「だけ」しか報道されなかったからです。映画評論家の町山智弘さんがこういう内容が一部を紹介されていたので私は全文の日本語訳をみました。

 

彼女はスピーチの末尾にこう言っています。

 

「心が砕けることがあったのならそれが芸術につくりるのです」。

 

私もある種のクリエーターです。私がモノをつくのは彼女が言うように「心が砕けること」があったからなのです。本来私はモノを作ったり、表現をするような面倒で仕方ないようなことはしたくありません。ただある種のひとは苦しみや悲しみをどうしようもなくてモノをつくることでどうにかしようと試みるものです。それは心理学の用語で「昇華」と呼ばれる行為です。

 

あるいは考えることにおいてもそうです。私は別に好きで考えるのではありません。他界された哲学者の池田晶子さんはヘーゲルが好きだったので生前「私は朝から晩までヘーゲルのいう絶対無について考えている」と書かれていました。彼女には(ここには書きませんが)ありませんがある「必然性」があったのです。

 

私も思えば朝から晩まで考えています。場合によっては夜寝ている時に夢の中でさえ考えています。私にも「必然性」があるのでしょう。

 

姜先生は「悩む力」という本を書きました。私は20代に自分で自分を説得していました。当時理由は不明ですが「悩みたかった」のです。私には「悩むことなど無駄だとしか思えない」のです。ですが「悩みたかった」のです。当時私はスーパーで働いていました。スーパーで働きながら「もっと違うことをした方が良いのに、仕事に精を出すとか勉強するとか友達と遊ぶとか飲みに行くとか女の子と遊ぶとか色々あるのに、そんな悩むとか無意味なことを辞めた方が良いのに」と自分で自分を説得するのですが、どうしても「悩みたかった」のです。

 

結果そこそこのオジサンにはなったのでしょう。

 

「因果」という言葉があります。これが釈迦が発見した法則です。今では普通のことです。「原因があって結果がある」ということを因果を言います。

 

私は今の私には結構満足しています。でもそれは堀江貴文さんの著作のサブタイトルの通りのことを長年繰り返した結果です。

 

堀江貴文さんの著作のタイトルは「ゼロ」です。サブタイトルは「何にもない自分に小さなイチを足してゆく」です。

 

私には何もありませんでした。だから何十年も「小さなイチを足し続けてきた」のです。その結果自分で結構納得出来る自分になったのです。「結果」そうなっただけです。

 

あなたもそうなのかもしれません。あなたにも何もないもかもしれません。でも何十年も「小さなイチを足し」つづけていけばそれなりのひとになることができます。

 

トランプさんにもそんなには共感していません。ただ報道はどうしても「要約」をして伝えます。それは当然なのかもしれません。ただせっかくのネット環境です。トランプさんの発言の全文を日本語の翻訳つきで聞いてみることをお勧めします。ユーチューブのリンクを張っておきます。

 

youtu.be

 

私はそれほぼトランプさんにもこの演説の全約をしたひとにも共感していません。ただ「自分と考えが違うひと」の発言に耳を傾けることはとても重要です。その事は場合によっては「苦痛」です。だとしてもその試みを放棄すべきではないのです。

 

私は障害を持っていますが、「障害者なんか死ね!」みたいな発言も聴きますし読みます。「この人は嫌い」とか「この人とは考えが違う」と考えられるのであれば考えられるほど聴くべきですし読むべきです。

 

似たような考えや感覚のひとといた方が楽です。特に男性にはそういう傾向があるようです。でもそのような振る舞いを私は軽蔑します。自分とは違う考えや発想には自分にとってヒントになることが多数含まれているからです。

 

それは多くの場合不愉快です。しかしその不愉快さに耐えてみることがあなたにはプラスです。

 

そういう「グループ」にいる方が楽です。だけれどもその「楽さ」に甘んじているひとを私は軽蔑します。

 

そういう場面があっても構いません。でもそういう場面だらけのひとがいくらでもいます。自由になさっていればよいと私は思います。ただ軽蔑はさせてもらいます。

パーソナルブランドの時代~「ひと」と「信用」の時代

前に私はある会社と付き合いを持つことを決めました。ちょっと危ないといえばあぶない資金運用の問題があったのです。その時の決め手になったのは「ひと」でした。Hさんという「ひと」が信用できると私は踏んだのです。そのHさんは仕事ができるひとでしたが、それ以上に「信用できるひと」だと思えたのです。

 

ある友人は銀行とつきあうときには支店長と友達になるといっていました。

 

ネット社会だといわれていて事実そうです。

 

新聞でも記名原稿が始まっています。

 

商売でも情報でも「信用できるひと」かどうかが問題なのです。もはら大企業の偉いさんだという理由で「信用できる時代」は終わったのです。そういうことで信用してしまうと痛い目にあいます。これは今だけのことではありません。「大企業の偉いひとだから信用できる」時代の方がどちらかといえば珍しい時代だったと考えるのが筋だと私はふんでいます。

 

昔なのですが、ある本を読んでいて「そうだったんだ」と思ったことがあります。ある女性が商売上のことで保険に入ろうと思ったのです。その時に安田生命の保険に入ったのですが。その理由が現代的なのです。その理由とは「社長が安田さんなら信用できる」というものです。

 

大企業の調子が悪いのですが、あれは大企業の中に入ってしまうと「個人」ではなくなってしまうという理由があるのではないかと私は想像しています。

 

ネット社会以前の問題としてネタを仕入れるときに「誰のリポートなのか」を問題にする必要があります。大新聞が悪いとは思わないのですが大新聞や大手のテレビ局であったとしても「誰の記事なのか」「誰のリポートなのか」を明示するのが筋です。その記事やリポートについて新聞社やテレビ局は一部責任を持つべきでしょう。しかしすべての責任を持つという発想やシステムの中では良い記事やリポートは生まれないと想像しています。

 

読者や視聴者も新聞社やテレビ局を「信用」しないで「ひと」を信用するのが筋です。

 

私は町山智弘さんのアメリカリポートをユーチューブで聞くためにネット環境をつくりました。アメリカリポートでは冷泉彰彦さんの在野のリポートや(今は日本が大変なことになって日本のことをやっていただく必要があるのですが)堤未果さんの詳細なデータ分析に基づくアメリカリポートが重要です。

 

大手新聞や大手テレビ局の記者が無能だと私はおもいません。でも「自分としてはこう思うのだが局や社の立場上言えないし、かけない」という場合が多々あると思うのです。

 

日本国内でもオジキこと須田慎一郎さんのリポートが重要です。

 

須田慎一郎のリポートで私は笑ったのですが森喜朗さんが理由なく現東京都知事小池百合子さんのことがとにかく嫌いらしいのです。小池さんが女性だとか元ニュースキャスターだとかそういうこととは無関係にとにかく嫌いらしいのです。それでひところ余計なことばっかり言っていたのです。

 

そこでも「誰のリポートなのか」が重要になっています。

 

会社でも同じで「誰が社長なのか」が重要です。私はライフネット生命のお世話になっていますが、これはライフネット生命の社長が「信用できるひと」だと私がふんだからなのです。

 

ネット上で匿名の記事がとびかっています。一万の匿名の記事よりも一個の名前を出した記事が(そのひとが有名、無名を問わず)強いのです。

 

ツイッターのアカウントを私は持っていますが基本みません。あそこは匿名だからです。もちろん本名ではやりづらい場面もあります。ケースバイケースではあります。

 

しかし「本名」には力があります。私はあの方々のお考えにはそんなに共感しませんが櫻井よし子さん(さくらが旧字なのが素敵です)も「信用できるかた」だと私はふんでいます。あるいはもう政治家をやめられましたが橋下徹さんも「ひととして信用できる」とふんでいました。事実「櫻井さんはこう言っているけれども」であるとか「橋下さんはこう言っているけれども」とほとんど間違いを指摘するためであったとしてもよく発言が引用されていましたし、櫻井さんの発言は今でもよく引用されています。

 

今のジャーナリストや企業家は「自分の名前で勝負をする」のが筋なのです。「どこかの会社の部長だ」ということにはほとんど意味はないのです。

 

それが「パーソナルブランド」の時代だということですし、「ひと」と「信用」の時代だということです。

人が興味が持てない話をするのはやめてください

全然私が興味を持てない話を延々とする人たちがいます。長年聞いて来たので、もう聞きません。

 

ある友人は前の職場で一緒だった人の写真を見せてくれました。そして「このひとが一番好きだった」と言っていました。そのひとのことを私はまったく知らないのです。唐突にそういうことを楽しそうに言われても何がなんだか私にはわからないではないですか。「私は知りません」。

 

それは私に向けた話ではありませんでしたし、ただ流していましたが若い人相手にスープリムスの話をしていたひとがいました。ダイアナロスがいたボーカルグループがスープリームスです。若い人にそういう話をしていたってその人には何がなんだかわからないではないですか。「私は知りません」。

 

ある件で似たような経験をしたおない年のひとがいたのですが、ほぼ一方的に話すのです。大変だったのでしょうが、私も大変だったのですが、私はそういう苦労自慢はしたくないのでいいもしませんでしたが「私は知りません」し、そのひと以上に苦労もしたし努力もしているのですが言いもしませんよ。あとで別の場所でお目にかかって懐かしそうに話しかけられたのですが無視しました。「私は知りません」から。

 

職場で一緒だった人も全然私が興味を持てない話を延々するひとで死ぬほど疲れました。もうそういう人の相手は一切しません。

 

「私はしりませんから勝手にやっててください」

 

飽きたのです。

 

死ぬほどそういう人たちの相手は何十年もしてきたから、もう卒業します。サヨウナラ。