世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

枕草子の現代性~私の自慢話です

読書力があるひとは若いころから本が読めるようです。私がそうでした。私が勝手に「教科書問題」と呼んでいることがあります。私がいう「教科書問題」とは重要な存在を教科書に載せるのかどうかという問題です。私がある時に家庭教師をしていた時に高校生の生徒さんに言ったことがあるのです。彼の高校の教科書には漱石の小説が長々と掲載されていました。私はこう言ったのです。「漱石を教科書に載せるのはよくないと思うんだよね」。

 

私は漱石がそこそこ好きです。だからコソの発言です。多くのひとにとって「教科書に掲載されているなにか=つまらないもの」です。たとえばビートルズのイエスタデーが私の世代では中学の教科書に載っていたのです。そういう有りようが漱石ビートルズはつまらないと思わせていまう構造があります。

 

それが私がいう「教科書問題」です。

 

ただ高校時代に教科書で枕草子を読みました。そういう私が何故国文学を専攻しなかったのか不明なのですが、清少納言に高校時代の私はとても親近感を覚えたのです。

 

私には枕草子の「構造」が見えていたのです。清少納言の描写力は天才としか呼べないものです。今読んでもなんとなくわかるのです。ただ私が言う「構造」です。彼女の結論は二つしかありません。天才でしかない描写をした後に「をかし」と書くか「わろし」を書くかだけのひとです。

 

その「をかし」と「わろし」が私にはわからなかったのです。ピンとこなかったと言うべきなのかもしれません。「をかし」にも「わろし」にも古語辞典を引けば語釈があります。その語釈にピンとくるものがありませんでした。

 

今ウィキったら1987年の新聞の書評に出ているようなので1987年に出版されたようです。

 

私は若者言葉や新語にいつも注目しています。基本批判はしません。理由は私が昔若者だったからです。たとえば最近若いひとが「やばい」とか「やばっ」とよく言います。私は良い表現だと思っています。あれは「危険なくらいに美味しい」とか「危険が感じるくらいに良い映画だ」という意味で、とても論理的なのです。

 

1980年代に女性達の言葉が世間でひんしゅくを買っていました。その言葉は「かわいい」です。(昔ですよ)「最近の女はなんでもかんでもかわいいですませる」という批判があったのです。

 

そして1987年(らしいのですが)橋本治さんが当時の女子高生言葉で枕草子を訳したのです。

 

これも思えば私の天才性だと思うのですが長年読んでいなかったのです。そして勝手に清少納言の「をかし」と「わろし」を当時の若者言葉に現代語訳していました。

 

「をかし」は「かわいい」と、

 

「わろし」は「ださい」と

 

現代語訳していたのです。

 

そして「そうなんだ。清少納言って天才的な描写をした後に、『こういうのってかわいい』、『これって超かわいい』、『これってダサッ』、『ダサくてイヤ』としか言わないんだ。今っぽいな】と思っていました。

 

こう橋本さんが訳したと長年信じていたのです。

 

でも橋本治さんは「素敵ね」と訳していて、後になってそれを読んで私は驚きました。「あの翻訳は自分がしてたんだ」と思ったのです。

 

1980年代だったら「をかしはかわいい」だったでしょうし、「わろしはださい」でしかなかったはずです。

 

ただ気がつけば私も私の周囲も「素敵だな」とか「素敵な」とかしょっちゅう言っています。

 

橋本さんは早かったのでしょう。でも私もやるでしょ。

 

きゃりーぱみゅぱみゅは「かわいいの伝道師」です。日本の「かわいい文化」はとても強いです。当然です。千年の伝統ですから。強いはずです。

 

でもね、本当にこういうひとが国文学科に進まなかったのはなぜですね。

 

政府主導なのでしょうか、「クールジャパン」をやっています。クールジャパンは英語です。あれは「かわいい日本」か「すてき日本」の方が適切でしょう。

メリルストリープのトランプさん批判について ジャーナリトちゃんとしましょう

ユーチューブのURLを張っておきます。

youtu.be

 

 

メリルストリープさんがトランプさんを批判したという「だけ」の報道がなされました。それ「だけ」の報道です。本当にそれ「だけ」でした。私はうんざりしました。それ「だけ」しか報道されなかったからです。映画評論家の町山智弘さんがこういう内容が一部を紹介されていたので私は全文の日本語訳をみました。

 

彼女はスピーチの末尾にこう言っています。

 

「心が砕けることがあったのならそれが芸術につくりるのです」。

 

私もある種のクリエーターです。私がモノをつくのは彼女が言うように「心が砕けること」があったからなのです。本来私はモノを作ったり、表現をするような面倒で仕方ないようなことはしたくありません。ただある種のひとは苦しみや悲しみをどうしようもなくてモノをつくることでどうにかしようと試みるものです。それは心理学の用語で「昇華」と呼ばれる行為です。

 

あるいは考えることにおいてもそうです。私は別に好きで考えるのではありません。他界された哲学者の池田晶子さんはヘーゲルが好きだったので生前「私は朝から晩までヘーゲルのいう絶対無について考えている」と書かれていました。彼女には(ここには書きませんが)ありませんがある「必然性」があったのです。

 

私も思えば朝から晩まで考えています。場合によっては夜寝ている時に夢の中でさえ考えています。私にも「必然性」があるのでしょう。

 

姜先生は「悩む力」という本を書きました。私は20代に自分で自分を説得していました。当時理由は不明ですが「悩みたかった」のです。私には「悩むことなど無駄だとしか思えない」のです。ですが「悩みたかった」のです。当時私はスーパーで働いていました。スーパーで働きながら「もっと違うことをした方が良いのに、仕事に精を出すとか勉強するとか友達と遊ぶとか飲みに行くとか女の子と遊ぶとか色々あるのに、そんな悩むとか無意味なことを辞めた方が良いのに」と自分で自分を説得するのですが、どうしても「悩みたかった」のです。

 

結果そこそこのオジサンにはなったのでしょう。

 

「因果」という言葉があります。これが釈迦が発見した法則です。今では普通のことです。「原因があって結果がある」ということを因果を言います。

 

私は今の私には結構満足しています。でもそれは堀江貴文さんの著作のサブタイトルの通りのことを長年繰り返した結果です。

 

堀江貴文さんの著作のタイトルは「ゼロ」です。サブタイトルは「何にもない自分に小さなイチを足してゆく」です。

 

私には何もありませんでした。だから何十年も「小さなイチを足し続けてきた」のです。その結果自分で結構納得出来る自分になったのです。「結果」そうなっただけです。

 

あなたもそうなのかもしれません。あなたにも何もないもかもしれません。でも何十年も「小さなイチを足し」つづけていけばそれなりのひとになることができます。

 

トランプさんにもそんなには共感していません。ただ報道はどうしても「要約」をして伝えます。それは当然なのかもしれません。ただせっかくのネット環境です。トランプさんの発言の全文を日本語の翻訳つきで聞いてみることをお勧めします。ユーチューブのリンクを張っておきます。

 

youtu.be

 

私はそれほぼトランプさんにもこの演説の全約をしたひとにも共感していません。ただ「自分と考えが違うひと」の発言に耳を傾けることはとても重要です。その事は場合によっては「苦痛」です。だとしてもその試みを放棄すべきではないのです。

 

私は障害を持っていますが、「障害者なんか死ね!」みたいな発言も聴きますし読みます。「この人は嫌い」とか「この人とは考えが違う」と考えられるのであれば考えられるほど聴くべきですし読むべきです。

 

似たような考えや感覚のひとといた方が楽です。特に男性にはそういう傾向があるようです。でもそのような振る舞いを私は軽蔑します。自分とは違う考えや発想には自分にとってヒントになることが多数含まれているからです。

 

それは多くの場合不愉快です。しかしその不愉快さに耐えてみることがあなたにはプラスです。

 

そういう「グループ」にいる方が楽です。だけれどもその「楽さ」に甘んじているひとを私は軽蔑します。

 

そういう場面があっても構いません。でもそういう場面だらけのひとがいくらでもいます。自由になさっていればよいと私は思います。ただ軽蔑はさせてもらいます。

パーソナルブランドの時代~「ひと」と「信用」の時代

前に私はある会社と付き合いを持つことを決めました。ちょっと危ないといえばあぶない資金運用の問題があったのです。その時の決め手になったのは「ひと」でした。Hさんという「ひと」が信用できると私は踏んだのです。そのHさんは仕事ができるひとでしたが、それ以上に「信用できるひと」だと思えたのです。

 

ある友人は銀行とつきあうときには支店長と友達になるといっていました。

 

ネット社会だといわれていて事実そうです。

 

新聞でも記名原稿が始まっています。

 

商売でも情報でも「信用できるひと」かどうかが問題なのです。もはら大企業の偉いさんだという理由で「信用できる時代」は終わったのです。そういうことで信用してしまうと痛い目にあいます。これは今だけのことではありません。「大企業の偉いひとだから信用できる」時代の方がどちらかといえば珍しい時代だったと考えるのが筋だと私はふんでいます。

 

昔なのですが、ある本を読んでいて「そうだったんだ」と思ったことがあります。ある女性が商売上のことで保険に入ろうと思ったのです。その時に安田生命の保険に入ったのですが。その理由が現代的なのです。その理由とは「社長が安田さんなら信用できる」というものです。

 

大企業の調子が悪いのですが、あれは大企業の中に入ってしまうと「個人」ではなくなってしまうという理由があるのではないかと私は想像しています。

 

ネット社会以前の問題としてネタを仕入れるときに「誰のリポートなのか」を問題にする必要があります。大新聞が悪いとは思わないのですが大新聞や大手のテレビ局であったとしても「誰の記事なのか」「誰のリポートなのか」を明示するのが筋です。その記事やリポートについて新聞社やテレビ局は一部責任を持つべきでしょう。しかしすべての責任を持つという発想やシステムの中では良い記事やリポートは生まれないと想像しています。

 

読者や視聴者も新聞社やテレビ局を「信用」しないで「ひと」を信用するのが筋です。

 

私は町山智弘さんのアメリカリポートをユーチューブで聞くためにネット環境をつくりました。アメリカリポートでは冷泉彰彦さんの在野のリポートや(今は日本が大変なことになって日本のことをやっていただく必要があるのですが)堤未果さんの詳細なデータ分析に基づくアメリカリポートが重要です。

 

大手新聞や大手テレビ局の記者が無能だと私はおもいません。でも「自分としてはこう思うのだが局や社の立場上言えないし、かけない」という場合が多々あると思うのです。

 

日本国内でもオジキこと須田慎一郎さんのリポートが重要です。

 

須田慎一郎のリポートで私は笑ったのですが森喜朗さんが理由なく現東京都知事小池百合子さんのことがとにかく嫌いらしいのです。小池さんが女性だとか元ニュースキャスターだとかそういうこととは無関係にとにかく嫌いらしいのです。それでひところ余計なことばっかり言っていたのです。

 

そこでも「誰のリポートなのか」が重要になっています。

 

会社でも同じで「誰が社長なのか」が重要です。私はライフネット生命のお世話になっていますが、これはライフネット生命の社長が「信用できるひと」だと私がふんだからなのです。

 

ネット上で匿名の記事がとびかっています。一万の匿名の記事よりも一個の名前を出した記事が(そのひとが有名、無名を問わず)強いのです。

 

ツイッターのアカウントを私は持っていますが基本みません。あそこは匿名だからです。もちろん本名ではやりづらい場面もあります。ケースバイケースではあります。

 

しかし「本名」には力があります。私はあの方々のお考えにはそんなに共感しませんが櫻井よし子さん(さくらが旧字なのが素敵です)も「信用できるかた」だと私はふんでいます。あるいはもう政治家をやめられましたが橋下徹さんも「ひととして信用できる」とふんでいました。事実「櫻井さんはこう言っているけれども」であるとか「橋下さんはこう言っているけれども」とほとんど間違いを指摘するためであったとしてもよく発言が引用されていましたし、櫻井さんの発言は今でもよく引用されています。

 

今のジャーナリストや企業家は「自分の名前で勝負をする」のが筋なのです。「どこかの会社の部長だ」ということにはほとんど意味はないのです。

 

それが「パーソナルブランド」の時代だということですし、「ひと」と「信用」の時代だということです。

人が興味が持てない話をするのはやめてください

全然私が興味を持てない話を延々とする人たちがいます。長年聞いて来たので、もう聞きません。

 

ある友人は前の職場で一緒だった人の写真を見せてくれました。そして「このひとが一番好きだった」と言っていました。そのひとのことを私はまったく知らないのです。唐突にそういうことを楽しそうに言われても何がなんだか私にはわからないではないですか。「私は知りません」。

 

それは私に向けた話ではありませんでしたし、ただ流していましたが若い人相手にスープリムスの話をしていたひとがいました。ダイアナロスがいたボーカルグループがスープリームスです。若い人にそういう話をしていたってその人には何がなんだかわからないではないですか。「私は知りません」。

 

ある件で似たような経験をしたおない年のひとがいたのですが、ほぼ一方的に話すのです。大変だったのでしょうが、私も大変だったのですが、私はそういう苦労自慢はしたくないのでいいもしませんでしたが「私は知りません」し、そのひと以上に苦労もしたし努力もしているのですが言いもしませんよ。あとで別の場所でお目にかかって懐かしそうに話しかけられたのですが無視しました。「私は知りません」から。

 

職場で一緒だった人も全然私が興味を持てない話を延々するひとで死ぬほど疲れました。もうそういう人の相手は一切しません。

 

「私はしりませんから勝手にやっててください」

 

飽きたのです。

 

死ぬほどそういう人たちの相手は何十年もしてきたから、もう卒業します。サヨウナラ。

極私的「渋谷陽一」さん話

NHK様が時々頭がおかしくなります。今はわからないのですが昔は「若い」という単語がタイトルについている番組は頭がおかしかったのです。(これはほめ言葉です)

 

「若い広場」であるとか「若いこだま」(だったと思うのですが記憶が曖昧です)であるとか「放送して良いのですか」という内容でした。

 

「若い広場」はインタビュー番組と対談番組の中間くらいのラインでいわばトークショーだったのでしょうね。「若いこだま」はDJ番組だったのでしょうか。DJの人選が問題でした。若き日の桃井かおりさんとか矢野顕子さんとか渋谷陽一さんがDJをされていうたのです。

 

ある音楽ジャーナリストが渋谷さんがNHKに出ているだけで当時渋谷さんを批判していました。そういう時代だったのです。NHKに出演することがある種の人には当時「悪」だったのです。信じられないと思うのですが、そうだったのです。

 

その後のNHK様は「ヤング」がつくと頭がおかしいのです。私は好きで見ていましたが「レッツゴーヤング」はただアイドル番組でした。ただのアイドル番組にお金をかけてNHKがやっていたのです。であるとか「ヤングミュージックショー」(だったと思うのですが)で今でも覚えていますがスティービーワンダーのコンサートを二時間くらいやっていました。

 

NHKは今でもすごくて私のおそらく直系の先輩であろう泉麻人さんがDJを務めるラジオ番組で(当時)荒井由実さんのアルバム(当時はLP)の片面を流しっぱなしにして泉さんがちょっと話すと、もう片面を流しっぱなしにしていました。2016年のことでした。NHKは相変わらずすごいと思いました。

 

私は聴いてもいませんが、紅白歌合戦の真裏で渋谷さんがラジオ番組をやっていて当時のロックファンが聴いていました。私はそういう人たちが怖かったので、かかわりを持たないために聞かないでいたのです。

 

1980年という年は大きな節目でした。

 

YMOのソリッドスーツサバイバーが1980年だったはずです。山下達郎さんのブレイクも1980年。松田聖子さんのデビューが1980年。大滝詠一さんのロングバケイションがちょっと遅れて1981年ですね。

 

坂本龍一さんが1980年に渋谷さんあっているはずです。

 

坂本さんの渋谷さんに対する印象を一言当時語っているのです。

 

「普通のひとでした」という印象です。

 

70年代の渋谷さんは「普通のひとではなかった」のでしょう。そうですよね渋谷さん。

 

ケンカをしょっちゅうしていましたし、理論武装してロックとか語っていましたし。

 

今から思うとなんでロックを語るのに理論武装が必要だったんでしょうか。

 

渋谷さんは19歳とか、そういう年齢で出版社を立ち上げるのですが、吉本隆明さんの影響らしいのです。だからある種ゴリゴリのひとなのでしょう。

 

私は渋谷さんに呼ばれるようなら馳せ参じますがイジメないでください。私はメンタルが弱いのでイジメとかそういうのは本当に苦手ですから、お願いしますよ。

右とか左とか死ぬまでやってればいいんじゃないですか 私には興味がありません

「男と女」とか「昼と夜」とか、そういう思考の軸がない誰もか困るようです。ある時期の新興宗教でいうと「創価学会創価学会以外」とかも軸です。

 

佐高信さんが書いていたと思うのですが「壊すのは簡単で作るのは難しい」と。

 

たとえば堤未果さんは「1%の富裕層と99%の貧困層」という軸を提示しています。我が師橋本治さんは確か「負け組」という概念を軸に考えています。私は「改革に心惹かれる人と今のままでそこまで悪くないと思う人」という軸を提示しています。

 

この三つのどれもが「保守とリベラル」とか「右と左」とか、そういうこととはまったく無関係な事です。

 

「勝手にやってください。私は知りません」という「感じ」は言いたくもないのですが渋谷陽一さんにどこかににているのです。

 

渋谷さんがどこか「勝手にやってください」というひとです。

 

渋谷陽一さんみたいな商売が下手な人には似たくないのですが。

 

これは前に書いたことではあります。

 

ロッキングオンジャパンがパチパチに負けた件があったのです。パチパチの商売の間口が広かったのです。ロックミュージシャンにワーワーキャーキャー言いたいひと相手の商売をしていたのがパチパチで、ロックミュージシャンに創作やパフォーマンスについのマジメな話を聞きたい人相手の商売がロッキンオンジャパンでした。当然パチパチが売れるでしょ。

 

これも前に書いたのですが「sightサイト」という良い総合誌があって今不定期刊のようです。渋谷さんが固執する部分があって、そうなると当然「sightサイト」は売れないので不定期刊なのです。

 

ついでに書くと昔ロッキンオンを読んでいて「ローリングストーン誌というとても良い雑誌があるのだけれども、これを読むと性格が悪くなるので気をつけましょう」と書いてあったのですが、ロッキンオンを読んでいてもそうとう性格が悪くなっていた自分に気がついていた私はロッキンオンを読むことも辞めたのです。

 

今はしりませんが昔のロッキングはいわば掲示板だったのです。素人の原稿をどんど採用する雑誌で、当時の私はロッキンオンに絡みたくないと思っていたのです。そしてロッキングを読みもしない若者になったのです。ロッキンオン出身の音楽ライターはそうとういるのでしょうし、音楽業界への貢献度も高いのでしょうが、私はそういうルートを通るのは絶対イヤだと思っていました。「たたき合い」とか普通にありましたし。

 

ロッキンオンにも私は興味がないので勝手にやっていてください。

 

右とか左とか好きな人たちも勝手にやっていてください。

 

私は「作ることでバタバタしています」から。

 

右とか左とか言っている人たちは既成の何かを疑う能力にかけているのでしょうね。私は興味がありません。

何でも「いきなりできることはない」 自慢したくないのです

友人にコピーライターになって欲しくてコピーライター絡みの本を数冊読みました。

 

あの人たちは「写経」なるものをしているようです。いいコピーをひたすら書く作業を「写経」と呼ぶらしいのですが。

 

体に入れるのでしょう。

 

「読書百遍義自ずから見る」という言葉があります。私は好きな文章なら100回くらいは読みます。

 

そうすると「体に入る」のです。

 

余計なことをいうと林真理子さんは弟さんを尊敬させていた時期があるようです。理由は簡単で「弟さんが本を読まない」からなのです。

 

読書家にはそういうことが多々あります。本を読まないひとを尊敬することが多々あるのです。

 

しょせん好きでやっているだけのことですから、意味も価値もないと信じているのです。

 

ある席で若いひとに安部公房を勧めたら「ちょっと安部公房はわからいづらいんじゃないですか」とたしなめられました。

 

安部公房も私にとっては「娯楽でしかなかった」のです。

 

あるいは夏目漱石が10代後半から20代前半に妙に好きで漱石ばっかり読んでいた時期があります。

 

あれはおそらく「文体」だったのでしょう。

 

漱石がそんな年でわかるはずはありませんから。

 

ここからが本題なのですが、あるカフェで「見ないでキーボードを打てるひとがいるよね」という話をしている人たちがいたのです。

 

私は昔の人なので英文タイプを女性の講師と生徒に嫌われながら習っているのです。

 

男の友達はもっと若い世代なので、ワープロ検定の勉強をしています。

 

だからブラインドタッチが出来るのです。

 

それが商売でも人間関係であってもいきなりできるはずがないのです。

 

みんなそれをいわないだけのことです。

 

そういうことを変にうらやましがらないで欲しいのです。

 

いうと自慢にしかならないのでコッチは言いたくないのです。