世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

無意味にひとの写真を撮らないでください あなたは写真がうまいのかもしれませんが

一流の写真家で肖像写真にこだわるひとがいます。風景写真における緊張感と人物を前にした時の緊張感はまったく違うからです。

 

あなたは写真がうまいのかもしれません。でも「人間関係の基礎」が出来ていないひとが好き放題肖像写真を撮ります。

 

「構図」であるとか「露出」にはお詳しいのでしょう。

 

でもそういうひとの写真はダメです。問題外です。

 

「人間関係の基礎がダメ」だからです。

 

私は無名ですが、あれは死ぬほど迷惑なのです。

 

スマートフォンもありますし自撮りは結構です。

 

ただひとの写真を普通に撮らないでください。死ぬほど迷惑ですから。

 

対象が有名、無名を問わずそういうことをするひとは「人間関係基礎」ができていません。幼稚園からでもやり直してください。

会社の規則で「業務上のラインの使用は一切禁止する」と書いてください 当然ライングループもダメです

私は絶対いると思うのですが客からライン交換を迫られてこまっている女性です。彼女たちが「会社の規則でラインはだめなんです」と言えれば済むことです。

 

あるいはライングループです。ライングループないでライングループに入っていないひとの悪口をいうようになります。そこで悪口を言えないひとがライングループの中で浮いてしまいます。

 

そういう場面で困っているひともいるはずです。

 

だから会社の規則に「業務上のラインの使用は一切禁止する。当然ライングループも禁止する」と書いておいてください。

 

これはネットリテラシー以前の問題です。

「働く女性」は「水商売の女性」から学びましょう

体を売っている女性には何らかの事情があると想像してはいます。そうだとしても彼女たちも「水商売」をやっている女性です。

 

彼女たちはランクCです。

 

色気を売っている水商売のランクはBです。

 

体も色気も売らない水商売の女性がランクAです。

 

私は行ったことがありませんがキャバクラがあります。ああいうところには当然定年があるはずです。23歳とか24歳なのでしょう。キャバクラで仕事ができるのはそういう年齢までのはずです。

 

ある年齢以上で色気を売っている女性にはたいてい悪い男がついているようです。

 

水商売をやっていないのに「色気を売っている女性」がいます。ホントに迷惑です。消えて欲しいくらいに迷惑なのです。

 

セクシャルハラスメントをする男性にはもちろん悪いです。。でも明らかに「色気を売っている女性」がいます。本当に迷惑なのです。

 

男でも女でも仕事に色気を持ち込まないでください。そういうことは死ぬほど迷惑です。

男と女と父と母

町でお母さんなのだけれども「女」をやっているひとがいます。私は「引きます」。「女」と「お母さん」は違います。「お母さんであって美しいひと」もいくらでもいます。でも結婚して子供がいるのに「女」をやっているひとが一部います。それは違うと私は思うのです。

 

「男」でもそうです。「お父さんファッション」なるものがありますから。「父親であまりに男をやっているひとを見ると私は引きます」。「引く」のです。

 

うまく説明できないのですが、「男」と「父親」、「女」と「母親」は違う存在なのです。

 

別にオシャレしいてもまったく問題はありません。ただ結婚していて子供までいるのに「男」や「女」をやっているひとには私はやはり問題があると思うのです。

 

オシャレとかカッコつけには問題はありません。そういうこととは違うことです。

 

そういう父親や母親の子供は大変だろうなと想像しています。

「ゴメンちょっと頭貸して」 頭は借りたり貸したりできるもの 仕事ができるひとの特徴

これは自慢話ですが私は若い頃から店長や社長から気にいられていました。理由は簡単です。「店長の立場」、「社長の立場」でモノを考えることが出来たからです。「大人びている子供」であったことから考えると子供の頃からそういう要素があったのかもしれません。

 

ある仕事場で仕事仲間に私はこういいました。

 

「ゴメンちょっと頭貸して」

 

その時に私はおそらくいろいろなことを考えいたのでしょう。そして限界まで考えていてちょっとした事の結論が出なかったのです。彼は「うん」と言って、「これはこうだよ」と言いました。

 

私が「頭を貸す」場面も当然あります。

 

ある共通了解さえあれば「頭は借りたり貸したり」出来るのです。

 

その共通の了解が持てるひとが「仕事ができるひと」なのです。

 

「社長はこうだな」、「部長はこう」、「部下はこう」、「クライアントはこう」という発想が持てることが「共通の了解」です。

 

その「共通の了解」が持てる人同士であれば「頭を借りたり貸したり」できます。

 

そしてこれが出来るひとは「仕事ができるひと」なのです。

あなたが直面していることを偽ってはダメです 「孤独」は「孤独」、「闇」は「闇」です

今日はもうブログの更新を辞めます。今日の最後のテーマは自分が直面していることはそのまま受け入れましょうということです。

 

あなたが直面している問題は「孤独」なのかもしれません。あるいは底知れない「闇」なのかもしれません。

 

事実「孤独は孤独」で「闇は闇」です。これは事実です。ともにツライものです。

 

これは逃げようがない「事実」なのです。こういう「事実」は受け入れることがまず必要です。もちろん「逃げて」も構いません。「苦しい事実」なのですから。

 

でも「孤独」だからこそ「誰かに会いたい」と思うものですし、「闇しかないと思うから灯りが欲しくなる」ものです。

 

ネガティビティは、そういう意味であれば「悪い」とは言い切れないものです。

 

まだ放送しているのかどうか私は知らないのですが、キリスト教の番組で「暗いと文句を言う前にすすんで灯りをつけましょう」というフレーズが繰り返し流されていました。

 

何教だからという問題以前に「暗いから灯りはつけます」よ。「暗いからこその灯り」です。明るいのであるのならば「灯り」は必要ありませんから。

 

私はキリスト教の勉強をしていませんが、もしあなたが今「暗い」と思うのであれば何らかのカタチで「灯りをともす」のは普通です。それがどういうカタチになるのかは私には不明ですが。

良い評価にはとまどいませんか 私は長年「褒められる」のが苦手でした セルフイメージが低いことも悪くはないのかも

さっきネット上でほめてもらいました。ちょっと前だったらイヤだったと思います。私は誉められるのがずっと苦手だったからです。そういう「人の評価が高くてイヤ」なひとがそうとういると思うのです。

 

私のセルフイメージ(自分が持っている自分の姿のイメージ)が低かったのかもしれません。さっき褒められても普通だったのはセルフイメージが上がったからなのでしょう。

 

セルフイメージは高い方が良いです。でも低くても良いのかもしれません。「自分はだめ人間だ」と信じているひとがすることは一つだけだからです。「努力をする」事をセルフイメージが低いひとは普通にします。

 

セルフイメージが低い人は普通に努力をします。

 

セルフイメージが低いことが「良いのかもしれない」と書いたのはそういう理由です。

 

そうですよね。